睦月 7

「……あ」
 反射的にまずいところを見られた、と思い、多喜さんから距離を取ろうと一歩後ずさる。視界の先にいる辻は目を大きく見開いて俺たちを凝視し、それから掠れた声を発した。
「……久野さん、それ……」
 見られてまずいのは、多喜さんとの距離だけじゃなくて顔もだった、と慌てて手のひらで頬を抑えたが時すでに遅く。辻は大股で俺たちの傍へ歩み寄ると俺の腕を掴んで引っ張った。
「何ですか、これ。誰に殴られたんです?!」
 辻の声に反射的に違うと首を振るが、俺が言葉を発するより早く、多喜さんがこう言った。
「本当にすまない、久野……」
「あんたなのか?!」
 辻の鋭い声が早朝のオフィスに響く。
「え、辻?」
 慌てて辻のコートを掴むが、辻は掴んでいた俺の腕を解放すると多喜さんの胸倉をつかみ上げた。
「あんたが久野さんを殴って傷つけたのか?! たしか昨日、あんたたち一緒に……!」
「辻!」
 今にも多喜さんに殴りかかる寸前の辻と、辻にシャツを掴まれている多喜さんの間に強引に身体をねじ込ませようとしたけれど、辻はぐい、と多喜さんを強く引き寄せて俺が入れる隙間はなく、俺は両手だけを二人の間に突っ込んで叫んだ。
「誤解だ、辻! 違う!」
「ちょっと待て、辻、落ち着け」
 俺と多喜さんが必死で辻に語り掛けていると、俺たちの大声に何事かとオフィスに出社してきた人たちがわらわらと集まってきた。気づけば遠巻きに人垣ができていて、すでに出社していた部長がその向こうから低く通る声で制した。
「朝っぱらから何をやってるんだ。三人とも、離れなさい」
 部長の一声にはっとしたように辻は多喜さんの胸倉を掴んでいた手の力を緩め、俺はほっと息をつく間もなく、厳しい視線でこちらを睨むように見ている部長に息をのんだ。

 辻は多喜さんに手を上げたわけではないけれど、オフィスで上司に掴みかかったという事実は俺が思っていた以上に重く見られ、部長から出勤停止を言い渡された。
 多喜さんと俺が、あれは誤解で、俺の怪我は多喜さんの友人とふざけているうちに負ったものだと説明したけれど辻の行為は会社員として許されるものではなかった。
 その日、辻が早退した後のオフィスは言いようのない緊張感に満たされていた。あれだけの人が目撃していたあの状況は内密に済まされるものではなく、その日の午後多喜さんは部長と一緒に人事へ出向くこととなった。俺はもうマスクで顔を隠す気力もなくパソコンの向こうの辻のいない席を眺めていた。

 昼休みと午後何度か辻に電話をかけた。しかし呼び出し音が鳴るだけで辻は電話に応えることはなく、俺は仕事を終えてからまっすぐ辻の家へ向かった。
 辻の屋敷は昨日の夜と同じようにひっそりと静まり返り、チャイムを何度か鳴らしたけれどやはり何の応答もなかった。
 しびれを切らした俺は、今日は門を勝手に開けて中へ入りガラスの引き戸の玄関を叩いた。
「辻! 俺だ、久野だ! いるんだろ、開けてくれ!」
 玄関先で大声を開けて呼んだが、屋敷の灯りは全て消えていて人の気配がしなかった。
 辻は、ここじゃないところにいるんだろうか。
 どこだ。
 友達のところ? どこかで飲んでいるとか?
 もう一度電話をしたけれど、やはりコール音が鳴るだけで留守電にも切り替わらない。
 途方にくれて玄関先で立ち尽くしたまま、俺は主のいない広い庭をなすすべもなく眺めていた。

 如月