如月 3

 少し迷ったけれど、チャイムは押さずに門を開けてアプローチに足を踏み入れた。植木の間を縫うようにして進むと、庭の中に作った家庭菜園の中で、座り込んでいる辻の大きな背中が見えた。
「……辻」
 俺が名前を呼ぶのと、辻が足音に気付いて振り返るのはほぼ同時だった。
「……久野さん」
 驚いたように辻が俺の名を呼ぶ。
「どうして……」
 辻がシャベルを手にしたまま立ち上がり、目を丸くして呟いた。
 久しぶりに見た辻の姿に胸が詰まった。
 グレーのセーターを着て髪を無造作に下した辻は、俺が良く知っている「この家にいるときの辻」だった。
「………」
 言いたい事がありすぎて、言葉が出てこなかった。
「久野さん、今日仕事じゃ……」
 辻が戸惑ったようにそういうのを聞いたとたん、俺は辻が丁寧に作った畑の畝を大きくまたいで、革靴のまま辻の畑に踏み込んでいた。
「辻!」
 辻の腕に触れると、太陽の光をいっぱいに浴びたウールの暖かさが優しく俺の指に温度を伝えてきた。見上げると辻が驚きをそのままに浮かべた表情で俺を見ていた。
「辻………すまない。ごめん。俺、お前に……、……ほんとうに、ごめん、辻」
 セーター越しに辻の腕を掴んだまま、俺はそう言って頭を下げた。
 深く腰を折ったまま、片手で掴んだ辻の腕を絶対に離すまいと、俺はぎゅっとそこを掴み続けていた。
「久野さん、あの……顔、上げて下さい」
 辻が戸惑った声でそう言って、俺の肩にそっと触れる。
 辻の手が優しく促すままに俺は首をもたげて辻と視線を合わせた。
「……久野さん」
 少し視線を泳がせた辻は、それからぺこりと頭を下げた。
「謝らなくちゃいけないのは、俺のほうです。……何度も、電話をもらったのに。……それから、俺、ひどいことをした……あの日。怪我、させた」
 一瞬辻が何を言っているのか分からなかったけれど、大晦日の夜のことに思い当たり、俺は顔に血が集まるのを感じた。
「……あの、でも、あれは俺が……お前を傷つけたから」
「いえ、でもあんなことすべきじゃなかった。後悔してたんです、俺、だから……」
 そう辻が言いかけた時。
 からり、と乾いた音が屋敷の方からしてのんびりした穏やかな声が庭に響いた。
「あっちゃん、おきゃくさん?」
 驚いて声をした方を見ると、白い髪をきれいに結い、萌黄色の着物を来た小さなおばあさんが縁側に続くガラスの引き戸を半分開けて、にこにこして俺たちを見ていた。
「そんなところにいないで、おうちにおはいりなさい。お茶をいれてあげましょうね」
 おばあさんはたおやかに笑い俺たちに向かって手招きをすると、ゆっくりとガラス戸を閉めて茶の間へ歩いて行った。驚いてその姿を目で追っていると、辻が俺の顔を覗き込む。
「俺の、ばあちゃんです。久野さん、中に入りましょう」
 そして俺は辻に促されるまま、辻以外の人がいる屋敷に初めて足を踏み入れたのだった。

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