fortune kiss 5

 美和がアトリエに来たのは夜八時を過ぎた頃だった。他の従業員は全て帰宅した後だったため、広いアトリエには諒と聖一郎と美和の三人だけだった。なんとか笑顔を浮かべ、祝辞を述べた後でサイズを取る。目が疲れたのか、メジャーの目盛りが霞んでよく見えない。美和のつけた淡い香水の香りにむせそうになりながら、サイズをメモに残していく。
「ありがとう、諒さん。忙しいのにごめんなさい」
 おとなしく諒の前に立ったままで、優しい微笑みを浮かべて言った美和に、諒も微笑んでみせる。
「どういたしまして。安心して任せて。綺麗に作るからね」
「これから、聖一郎さんと食事に行くのだけど、諒さんも、良かったら一緒に行かない?」
 美和の罪の無い誘いに、諒は笑顔でやんわりと断る。美和は心から残念そうな顔をして、「今度は、ぜひ」と気を取り直した笑顔で告げる。
 なんて、礼儀正しい感じのいい女性。
 そんな美和を見て、微笑みを浮かべている聖一郎を背中で感じ、諒は息を詰めた。
「じゃあ、諒、食事をしてくる。食事の後、一回戻ってくるから」
 サイズを取り終わってすこし雑談をした後、ジャケットを取っってそう告げた聖一郎に、諒は手を振って見せた。
「いいよ、セイの仕事はもう終わってるだろう? 美和さんを送って、そのまま泊まっちゃえば?」
 冗談半分に言うと、聖一郎と美和は同時に顔を赤くした。
「諒……。からかうな。ちゃんと帰るよ。先に寝ていていいからな」
 美和を促して出ていく聖一郎の広い背中を見送り、諒はため息をついた
。  このアトリエを借りるのと同時に、諒と聖一郎は一緒に部屋を借りた。近所の骨董品のようなマンションの四階。寝に帰るだけの部屋だったが、それでもそこは二人の部屋だった。
 古いマンションには階段しかない。美和はそこまで上がって来れない。聖一郎は結婚を機に、部屋を出る事になっていた。
 あと、二ヶ月。
 カレンダーを眺め、それから美和のサイズを書いたメモを眺め。 こみ上げてくる塊を無視して、諒はパターンを引くために、紙を広げた。

 胸が苦しくて呼吸が整わないのを我慢しながら、一人きりでパターンを書いていたが、ふと人の気配を感じて顔を上げた。
 アトリエのドアの前にレオトが立っていた。
「……驚いた。どうしたの、急に」
 諒が紙から体を起こして訊ねると、レオトは肩をすくめて近づいてきた。
「随分熱中してたね。俺がいつ来たか、気づいてなかったでしょ?」
「いつって、今じゃないの?」 「もう十五分はあそこに立ってたよ。声かけても気づかないから」
 そう言われて、決まり悪さを感じた。
「ごめん。……で、どうしたの?」
 その質問には答えずに、レオトは作業台の上に置いてあったドレスのデザインを手に取った。
「これ、作ってたの?」
「……そう」
「レディースなんて、普段作ってないよね? しかもドレス。本当に大丈夫?」
 眉を上げてデザインと諒を見比べる。
「大丈夫だよ。これでもちゃんと学校を卒業してるんだから。それより、何? ここに来るなんて珍しい」
「……なんでもない。どうせ遅くまで仕事してるんだろうと思って、差し入れ。はい」
 渡された紙袋には、ホットサンドイッチとコーヒーが入っていた。まだ暖かい紙袋を作業台の上に置き、諒はさっきまで引いていたパターンを片付けた。
「もういいの?」
 それを見たレオトが近くにあった椅子に座りながら言う。
「ああ、そろそろ帰ろうと思ってたから……。ありがとう、これ。レオトはもう食べたの?」
「とっくにね。こんな時間まで食事を忘れて仕事してるのは諒くらいだよ。……あぁ、仕事じゃないか」
「……仕事みたいなものだよ。コーヒー、飲む?」
 うん、と頷いたのを見て、アトリエの隅のキッチンでお湯を沸かした。カップ一杯分のコーヒーはすぐに出来上がり、諒はそれをレオトに渡す。そのまま隣に座り、サンドイッチを頬張った。
「おいしい。助かったよ。本当に夕食の事忘れてたから」
「それにしてもオーバーワークじゃないの? もう日付変わるよ」
「レオトだって。仕事終わったばかりでしょ? なんだか気を使わせて、ごめんね」
 上目遣いに見上げた諒に、レオトはほんのり笑いかけて、くしゃりと頭を撫ぜた。
「……辛い時は、頼ってよ? 俺、諒の役に立ちたいから」
 レオトの柔らかな瞳を見つめ、諒は言葉にならない切なさを覚えた。レオトのその感覚は、諒が聖一郎に対して抱くものと同じだから。
 ごめん……
 心のなかで呟く。
 利用して、ごめん。レオトの優しさの上にあぐらをかいてごめん。甘えてばかりでごめん。
 そんな諒の気持ちなど全てわかっているかのように、レオトは穏やかな表情のままでコーヒーを飲む。
「それ、食べたら帰ろう。送るから」
「え? いいよ。近いし、すぐに帰れるから」
「いいから。どうせ諒の家は通り道なんだ。ついで」
 レオトの凪いだ海のような眼差しは、諒の遠慮も甘えも、全て受け止め、飲み込んで、受け流してしまう。レオトの前で、諒はまるで自分が無力な小さいボートになってたゆたっているような錯覚に陥る。
 結局、諒はバイクの後ろに乗せられマンションの前まで送ってもらった。
 深夜のひと気の無い路上にバイクを止め、ヘルメットを返しながら諒が礼を言うと、レオトもヘルメットを外し、僅かに微笑んだ後手招きをした。
「なに?」
 招かれるままに近寄ると、ふわりとレオトの手が諒の後頭部に添えられ、そのまま引き寄せられた。
 あっ、と思う間もなく、くちびるが重ねられていた。
 突然の出来事にされるがままになっていた諒は、至近距離でぼやけたレオトの頬を、その後ろの星空を見、レオトの付けたトワレの香りに包まれていた。
 高校時代からずっと馴染んだ香り。つねに諒の隣に漂っていた香り。
 茫然としていると、やがてそっとくちびるが離れ、レオトが少し悲しそうな眼で諒に微笑みかけた。
「幸せになれるように」
「……え?」
「幸せになれるように、おまじない」
 レオトの言葉の意味がわからず、諒はぼんやりしたままで首を傾げる。
「キス、が?」
「そう。願えばなんでも叶う。祈れば本物になる、と思う。だから、諒が幸せになれるように、神様に祈りながらキスしてあげる。毎日」
 困って視線を伏せる。レオトがかすかに笑うのが分かった。再びヘルメットを被ると、その中からくぐもった声で「おやすみ」と告げ、バイクを発信させた。
 諒はくちびるに残る温もりと、レオトの手が触れた後頭部の感触をリアルに感じながら、遠ざかっていくエンジン音を聞いていた。

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