fortune kiss 8

 駅まで送ると言って、美和と聖一郎がアトリエを後にした。
 諒は荒れ狂う心を持て余したまま、一人でアトリエを片付けた。
 美和に罪は無い。自分の気持ちを正直に伝え、聖一郎を手に入れた。彼女は正しい方法で戦ったのだ。
 聖一郎を失うかもしれないことに怯え、そばにいるだけでいい位置に甘んじたのは自分。いつかこういう日が来る事も分かりきっていた。
 胸に突き刺さったかけらが抜けない。
 痛みは消えて無くならない。
 綺麗に片付いたアトリエの床に座り込み、諒は小さく蹲った。
 心の痛みが、諒の呼吸をおかしくしていた。息が浅く、不規則にしか出来ない。精神の苦痛はそのまま肉体の苦痛に繋がる。最近はいつもそうだった。聖一郎と離れ一人になると襲われる発作。ままならない呼吸はじんわりと諒に苦しみを与える。それに焼き尽くされたいとすら願う自分がいた。
 おかしくなっているのかもしれない。それでもいい。いっそ、もっと酷くなりたい。
 荒い呼吸のまま、床に丸くなって眼を瞑った。
「諒?」
 突然声をかけられ、諒はびくりと体を振るわせた。
「大丈夫かっ?! どうした?」
 駆け寄り、抱き起こしたのはレオトだった。
 レオトの慣れた体温に、香りに、諒は一気に現実に引き戻される。部屋の白い灯りがレオトを照らしていた。突如襲ってきた衝動のままに、諒はレオトに抱きつき、胸に顔を埋めた。
「レオト……」
「諒?」
 囁くように問い掛けながら、それでもレオトは諒の体を抱き返してくれた。優しく背中を撫でられ、呼吸が次第に楽になっていくのを感じる。きっと、レオトは分かってくれる。全て。
 レオトがそっと口付ける。
 母親が子供にするようなキスを受け、とっさに諒はそれを手放したくないと思った。思わず強くレオトにしがみ付く。レオトがキスをしながら、少し笑ったのが分かった。そのまま、何度も優しくくちびるを合わせる。温もりが諒の心を溶かす。
 レオトのキスは、優しすぎる。居心地が良すぎる。
 それから、離れられなくなる。
 レオトにしがみ付いた腕を緩める事が出来なかった。ずっと、レオトに抱きしめられていたいと、思った。

 海外から届いた布は、光沢のあるパールホワイトだった。
 輝く純白は、穢れない花嫁にふさわしい。柔らかな感触は幸せな結婚の象徴だった。
 正規の仕事を終わらせた後、またアトリエに一人で残り、型紙をあわせ裁断をしていると聖一郎が申し訳なさそうに近づいてきた。
「遅くまで、本当にごめん。手伝いたいんだけど、今日は美和の実家に泊まりに行く事になっていて……」
 どきん、と心臓が跳ね上がった。
「明日は昼ごろ出勤するから、それまで頼むな? 携帯はずっと生かしておくから、何かあったらすぐに電話してくれ」
「大丈夫だよ。……行ってらっしゃい」
 なんとか微笑むと、すぐに注意を布に戻した。
「あぁ。……今夜は、一雨くるそうだから、諒も早く帰るといい」
 そういい残した聖一郎が部屋を出て、階段を降りる足音がした。
 今夜、聖一郎は帰らない。
 結婚式は刻々と近づいてくる。
 鋏を握り締め、諒は深く息を吸い込もうとして失敗した。呼吸は途切れ途切れで、苦しさを訴える。
 目の前の布を見つめた。この、白い布。
 白いものが綺麗か?! 柔らかければいいのか?! 大切な聖一郎は行ってしまうのに、俺は何をしているんだ?!
 突発的に湧き上がってきた塊に突き動かされるように、その布を破り、鋏で引き裂こうとした時、アトリエのドアが開いた。
 顔を出したレオトがいつものように微笑み、それを見た諒は握り締めていた鋏から力を抜いた。
「…………あ」
 呆けたようにその場に立ちすくむ諒のそばに歩いてきたレオトは、広げられた布を一瞥すると諒の頬にキスを落とした。
「今日はさっさと帰ろう。雨が降り出しそうだから。これ、片付けて」
 促されるままに布を片付け、背中を押されるようにしてアトリエの電気を消し、表に出た。
 きっと、レオトは諒が何をしようとしていたのか分かっていたはずだ。微笑みを浮かべる直前、一瞬硬い表情をした。
     無言のまま、バイクの後ろに跨る。目の前にある背中に縋り付きたいような衝動に駆られ、目を閉じた。いつものよういに肩に手を乗せ、振動に身を任せた。

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