アンバー 1

 男は一人、電信柱に身を寄せるようにしてその部屋の住人の帰宅を待っていた。いつも九時には帰宅するのに、今日は遅いようだ。仲間と飲んでいるのだろうか……。
 携帯に電話をかけて無事を確認したいが、いつのまにか番号が変わっていて繋がらなくなっていた。
 ……また、悪い遊びをしていないだろうか。
 最近はいつも同じ男が部屋に入り浸っていた。
 男は電柱にもたれ、細くため息をつく。
 部屋にしょっちゅう泊まりこむあの男。どうにかしないといけない。
 ……手遅れになる前に。
 そのとき、遠くからアルファルトを蹴る靴音が響いてきた。
 カツ、カツ、カツ、カツ。
 リズミカルなその音は間違い無い。
 男はのっぽの体を壁に押し付けるようにして息を殺した。次第に近づいてくる足音は、夜の住宅街にこだまする。全身に力を入れ、眼だけを大きく見開いて、ひたすらその靴音がやってくるのを待つ。
 やがて、靴音の主は軽やかな足取りでアパートの門をくぐり、その中へ消えていった。
 後ろ姿を網膜に焼き付け、男は口元に堪えきれない笑みを浮かべる。すぐさま携帯電話を取り出し、たった今主の帰りを迎えたばかりの部屋に電話をする。数回のコールの後、受話器が上がり緊張した声が聞こえてきた。
「……もしもし?」
 男はその涼やかな美しい声を聞くことが出来た喜びで打ち震えた。感激で何もいう事が出来ず、ただ、黙って携帯を握り締め、呼吸を粗くする。
 男の口から漏れる、ヒューヒューという音を、電話の向こうの主は恐怖におののきながら聞いていた。

                                                                                        

 十二時三二分到着、同時刻発。各駅停車の東海道線。
 越智氷河はいつもと同じ車両に乗り込むと空いた車内をさっと見回し、ある筈の姿を探した。
 氷河の乗り込んだドアから二つ先。
 椅子の端で手すりにもたれるように、いつも通り彼はぐっすりと眠っていた。
 俯いて瞳を閉じている為、顔ははっきりと見えないがそれでも雰囲気の華やかさが目を引く。
 これまたいつも通り、氷河は彼の向かいの席に腰を下ろし、彼を観察した。
 座っていても、椅子から伸びる脚の長さが分かる。形いい脚を窮屈そうに曲げ、胸の前で腕を組んで顔を伏せている。後ろの窓から差し込む日差しに、明るいオレンジ色にカラーリングされた髪が透けて、触れたくなるほど柔らかそうだ。その垂れた前髪の奥にはスッ通った鼻筋と薄く開いた口元が隠れていた。
 ……かっこいいよなぁ。
 しょっちゅう見ている顔なのに、こうしてじっくり見るたびにそう思わせてくれるのだからたいしたものだ、と氷河も腕を組み思った。
 しかも、こいつのすごいところは自分の魅力を充分わかっていて、それを更に押し出そうとしているところだ。
 流行やブランドに疎い氷河には分からないが、学内の友人曰く。
「あいつの服、全部QUAITだぜ。代官山に店があって、最近すっごい人気なんだ。まだ若いデザイナーチームで出してる店で、雑誌にも良く載るんだよ。値段も結構張るんだけどさぁ…全身それで揃えるって事は、服に幾らかけてるんだろ」
 実家から通っている奴は、金があるからな。
 幾らでもかけられるんだろう、とやっかみ半分で想像する。
 また、そんな人気ブランドをしっかりと着こなしているところが憧れを通り越して憎たらしくもある。
 彼は学内の有名人でたいていの人間は彼を良く知っていた。
 桜木潤一郎。経済学部のニ年生。
 ルックスの華やかさもさることながら、その言動もエキセントリックで派手でとにかく人目を引き、彼に関する噂が絶えなかった。
 一体何人の学生が在籍するのかすらよく分からないマンモス大学で、学部も学年も違う氷河が彼の顔と名前がわかるという事だけで凄いのだ。
 噂では、彼は都心の自宅から一時間半かけて、神奈川の田舎の大学まで通学しているらしい。
 氷河の利用している沿線の始発駅から乗ってくるらしく、水曜日と金曜日、彼はいつも同じ時間、同じ車両で眠っている。
 チャラチャラした奴、という印象があり、あまり桜木を快く思っていない氷河だったがこうして無邪気に眠っている様を見ているのは嫌いではなかった。
 いや、むしろ楽しみにしていた。
 時の人のある意味、裏の顔を一人でじっくりと拝めるのだ。
 もっとも、氷河の乗り込む駅から大学まではたった三駅であっという間に下車する事になるのだが。

 電車がホームに滑り込む。
 慣性の法則で傾く体に力を入れながら、あらゆる面で標準的な日本人青年である氷河は、こうして桜木を眺めため息をつく。
 こういう風に生まれたかったなぁ……、と。
 桜木は電車が止まると同時に目を開き、車窓の外を確認するように目線を動かした。大学の最寄駅であることを確認し、さっと鞄をつかんで立ち上がる。
 氷河も桜木から目を逸らして立ち上がった。
 大きなコンパスでぐんぐん前を歩く桜木と、どちらかというとのんびり歩く氷河の間はどんどん開いていき、改札を出る頃には氷河の視界からすっかり消えていた。

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