アンバー 7

 今年は暑くなるのが早かった。
 五月の半ばだというのに、日向にいるだけで溶けてしまいそうな陽気が続く。
 氷河は暑さには強いので割合平気だったが、日々ハードに体を酷使する役者陣は一様にげっそりしていた。中でもヒカリの顔色が悪く、ここ数日は滅多に絶やさない笑顔もどこかへ引っ込んでいる。
 告白し、恋人同士になる事は諦めた氷河だったが、そんなヒカリの様子が気になりちょくちょく声をかけるようにしていた。
「これからランニング? ヒカリちゃん、休んでた方がいいんじゃない?」
 四限が終わり部室へ向かった氷河は、頼りない足取りでグラウンドへ向かおうとするヒカリを見かけ、そう言った。
 するとヒカリは無理矢理はりつけたかのような笑顔を見せる。
「でも、体力付けないと。役者ですから」
 たとえランニングといえど、一人だけ休んでいられないというヒカリの気持ちはよく分かるが、それにしても顔色が悪すぎる。「……そう? でも、無理するなよ」
 本当は無理にでも引き止めたいのだが、一年生の女子の中でただ一人、キャストに抜擢されたヒカリが七月の公演に人一倍闘志を燃やしているのを知っている氷河は強くいう事が出来なかった。
 小走りでグラウンドに向かうヒカリの後姿を眺め、氷河も自分の仕事をするため部室に向かった。

 それから十分もたたないうちに、表で大声がした。
「開けて下さい! 早く!」
 部室で舞台監督を務める江沢と打ち合わせをしていた氷河は、何事かと廊下へ続くドアを開けた。するとニ年の河野がぐったりとしたヒカリを抱きかかえて立っている。
「何だ?!」
 仰天して叫ぶと、河野は気を失っているヒカリよりも更に青い顔で氷河を見下ろした。
「すいません、氷河さん、ちょっとどいて下さいよ。あ……ちょっと、場所作ってください。ヒカリちゃんが横になれるくらい」 慌てて江沢がちゃぶ台をどけ、カーペットの上を片付け始める。
 そこにヒカリを横たえ、河野は渋い顔をして立ち上がった。
「河野、どうしたんだよ?!」
 それまで呆然としていた氷河は我に返って河野の腕を掴んだ。
「ランニング中に突然倒れたんですよ。まあ、この暑さですからね。多分そろそろ誰かが倒れてもおかしくないとは思ってましたけど」
 カーペットの上に降ろしたヒカリを見ながら河野はため息をつく。
 やっぱり倒れたのか……。
 氷河も硬く瞳を閉じたままのヒカリを見つめながら河野に問い掛けた。
「大丈夫なのか?頭とか打たなかったか?」
「それは多分大丈夫です。ただの貧血だとは思っうんですけどね……びっくりしましたよ、本当」
 江沢がヒカリの顔を覗き込んで小さな声で呼びかけた。
「ヒカリちゃん、ヒカリちゃん、分かる?」
 すると、ヒカリが僅かに眉をしかめる。
「ここ、部室だよ。気持ち悪かったり、どっか痛かったりする?」
 問い掛ける江沢に、ヒカリは僅かに首を左右に振った。
 どうやら意識はあるようだ。それを確認するとわずかに江沢がほっとしたような顔をした。
 氷河は黙ってヒカリの頭の下に、半分に折った座布団を入れてやる。江沢がそっとヒカリのそばに座り、下敷きで扇ぎ、風を送ってやった。河野は様子を窺うように無言のまま壁際の椅子に腰掛ける。
 ふと氷河は自分も汗ばんでいる事に気づいた。直射日光の下ではないと言っても、部室内もじめじめしていて熱い。自分のタオルを濡らしてくると、それをヒカリの額に当てた。
 気休め程度でも、いくらか気分はマシになるかもしれない。
 するとヒカリはうっすらと瞳を開いて氷河の姿を認め、「ありがとうございます……」と呟くと、再び目を閉じた。どうしたものかと氷河と江沢は顔を見合わせる。戻らない蒼白な顔色を見ても、かなり容態が悪そうだ。
「医務室へ運ぶか……?」
 江沢が顎に伸びた無精ひげを撫でながら呟くと、ヒカリが目を閉じたままで呟いた。
「大丈夫です……」
「でも、すごく悪そうだよ」
 氷河がヒカリのそばにひざまづいてそう言った時、どかどかと演出の尾上が入ってきた。
「ヒカリちゃん、大丈夫?」
 足音はあれだけ大きかったのに、心配そうに小声で問い掛ける。江沢が眉を上げて、どっかりとあぐらをかいた。
「かなり悪そう」
「最近暑かったから、ばて気味だもんなぁ……いいよ、ヒカリちゃん、今日はもう帰りなよ」
「いえ、駄目です、稽古に出ます」
 帰れ、と言った尾上を見上げて、ヒカリは儚げに告げるが、尾上は首を縦に振らなかった。
「駄目だ、そんな状態で稽古にならないだろ。いいから、今日はゆっくり休んで、元気になって、また明日からがんばろう。な?」
「でも……」
「いいから。立つのもやっとだろう?」
 尾上に有無を言わさない口調で言われ、ヒカリは口を閉じた。
 そんなヒカリをしばらく眺めた後、尾上は氷河と江沢を振り返った。
「送っていったほうがいいな。越智、行ける?」
 問い掛けられ、氷河は慌てて頷く。少し前にもヒカリを家まで送っている。場所ははっきり覚えていた。
「あぁ、行ける」
 するとヒカリは再び弱々しく口を開いた。
「いいです……氷河さんは、照明の事しなくちゃいけないし。そんな迷惑かけられません」
「迷惑じゃないよ。困った時はお互いさま」
 言い聞かせるように氷河が言うと、江沢も頷いた。
「そうそう、こういう時は甘えるもんだ。越智に送ってもらいなよ」
 ヒカリは無言になる。何かを考えているようだった。

NEXT

アンバー 7」への1件のフィードバック

  1. ピンバック: アンバー 6 | fresh orange

ただいまコメントは受け付けていません。