アンバー 20

 そのままヒカリはしばらく泣きつづけ、氷河はそんな彼女の背中を子供をあやすように撫でつづけた。
 理由は分からなかったが、泣いているヒカリをかわいそうに思ったし、心配だった。その反面、「美女に抱きつかれるなんて、役得」なんて思いもちらりとよぎった。
 しかし、氷河はこの状況をどこか冷静に見ている自分に気づいていた。
 緊張も興奮も無い。ただ、泣いている後輩が心配で、かわいそうで、自分に出来る事があれば、何とかしてやりたいと思う。
 ……俺、もうヒカリちゃんに恋してないんだなぁ。
 不謹慎ではあるが、そんな事を考えていた。
 やがて泣き止んだヒカリはしゃっくりをしながら、決まり悪そうに髪をかきあげた。真っ赤になった目がウザギのようで、氷河はそれこそ妹に接しているような気分になっていた。
 「辛い事があるなら、……愚痴って楽になるような事なら、俺、いくらでも聞くよ?」
 さりげなくそう言うと、ヒカリは僅かに頷き、楽な姿勢で床に座り込んだ。何度か深く息を吸い込むと、照れたように笑って氷河を見た。
「自分が情けなくて……落ち込んでたんです」
 その笑顔すら無理矢理作ったものが分かるため、氷河は笑う事が出来なかった。ジーンズが汚れるのも構わず、無言でヒカリの前にあぐらをかく。
「私、凄い馬鹿だから、周りに迷惑かけてばっかり……。気を使っている内はいいんです。でも、気を許して、本当に親しくなると、我侭になって……大好きな人を呆れさせて」
 そこまでしゃべると、またこみ上げるものがあったのか、言葉を詰まらせて俯いた。
「私ね……皆には秘密にしてたんですけど……彼がいるんです。それで……ストーカーの事……ずっと、彼に黙ってたんです。……心配させたくなくて。だけど、この間……話をしていて、ふとした弾みにその事を言ったら、……すごく怒られて。どうして今まで黙ってたんだって。……彼、泣いちゃったんです。私、自分が悔しくて……私のこと、凄く心配してくれて、泣くほど心配してくれて…でも、彼を泣かせちゃった自分が不甲斐なくて……でも、その時、素直になれなくて、生意気な事言って……すごく怒らせちゃったんです」
 そうか……やっぱり、桜木と付き合っていたのか。そして桜木も、ストーカーの事を知ったわけか。 
 氷河はヒカリの話を聞きながら、桜木が涙を流す場面を想像してみたが、うまく行かなかった。桜木が泣くなんて想像できなかった。しかし、彼も人の子だ。見たことは無いが、怒ったり、落ち込んだり、苛々したり、勿論泣いたりもするのだろう。
 そう考えるとひどく不思議だった。同時に氷河は、今まで自分が桜木をある意味タレントか何かと同一視していた事気づき、愕然とした。
 桜木が自分を信頼してくれていたことは良く分かっていたつもりだった。自分はどうだ。
 桜木のことは好きだし、いい友達が出来たと思っていた。その一方、桜木をどこか特別視していた。
 やるせない思いが氷河の胸に広がる。
 桜木は、そんな氷河に気づいていただろうか。だから、ヒカリと付き合っていないと、隠そうとしたのだろうか。……本当には信用できないと思って。
 氷河は目の前で泣きじゃくるヒカリの頭をそっと撫でた。
「彼もさ……本当にヒカリちゃんが心配だから、……ヒカリちゃんが一人で抱え込んで、話してくれなかったのが辛かったんだろうな。だから、怒ったり泣いたりしたんだろうね……」
 ヒカリは小さく頷く。
「……分かってるんです。なのに、せっかく彼と話してるのに、楽しく話したかったのに、そんな話になちゃって。そしたら、ささいな事で苛々したりして、嫌な気持ちにさせるような事言って……傷つけて。そんな自分が凄く嫌で……」
 氷河はヒカリの髪をなでながら、優しく話し掛けた。
「彼も、きっと分かってるよ……ヒカリちゃんのそういう気持ち。……喧嘩したまま、電話を切っちゃったの?」
「はい……」
「じゃあ、彼も今ごろ、落ち込んでるよ。今日、仲直りすればいい。雨降って地固まるっていうでしょ。大丈夫だよ」
 氷河がそういって笑いかけると、ヒカリもようやく笑顔を見せた。
「……はい。そうします」
 そして、しばらく雑談をしてから立ち上がった。
「そろそろ行こう。稽古の時間になるから」
 ヒカリも、最後に目をぐっとこすって立ち上がった。倉庫を出て、鍵をかけながら氷河はヒカリに確認した。
「彼のこと、皆には秘密なんだよね?」
「……いろいろ、説明するの、面倒だから……」
 分かった、と安心するように笑いかけて、ヒカリと並んで歩いた。
 桜木とヒカリが交際を隠す理由がわからなかったが……それ以上、追求するのは止めよう、と氷河は心に誓った。
 俺には関係ない話だから……
 そう言い聞かせながら、ちくりと胸が痛んだ。

 稽古場として借りている教室にに入ると、江沢と演出の尾上が怖い顔をして腕組みをしていた。他のメンバーも一様に不安そうな、落ち込んだような顔をしてストレッチをしている。
 一番後ろの机に鞄を置いたところで、江沢から手招きされた。
「おはよう……なに?」
 二人と向き合うと、江沢は苦々しい顔でため息をつく。
「……もとのもくあみ」
「は? なんだよ?」
「進藤さん、台本を書き直すって」
「え、ええ?!」
 思いもかけない事実に、思わず大声を出した。
「なんだよ、それ?!」
「結末まで昨日書いたんだけど、気に入らない。もっと面白くするから、最初から全部書き直すって、さっき電話があった」
 あんまりな話に氷河が呆然としていると、尾上が大きくため息を尽いた。
「こうなると思ったんだよ。だいたい、ホンが出来るのが早いなと思ったんだ。こんなありがたい事もあるんだって、ご先祖様に感謝したのによ、やっぱりだ」
「……てことは、全部やり直し?」
 氷河がおそるおそる問い掛けると、部内のニトップは最高に不機嫌な表情で頷いた。
「照明も、音響も、衣装も、チラシも、小道具も、美術も……全部」
「役者はイチから作り直し、台詞覚え直しだよ! 無茶だって!!」
 尾上がついに耐え切れなくなったのか、近くの机を蹴飛ばした。
「進藤さんは、大きくは変えない、題名も設定もそのままって言ってるけど……どのくらい信用できるのか」
 江沢が暗い目で壁を睨む。
「俺の……照明プラン……ようやく出来そうだったのに」
 呆然と氷河が呟くと、尾上はため息をついた。
「……今までのだって充分面白いと思うのにさ……あの人、言い出したらきかないから……とりあえず、今週中に第一稿でいいから完成させてくださいとは言ったんだけど」
 氷河は過去を振り返った。
 ……今年の三月の公演は……やっぱり、台本遅かったよな……最初の十ページくらいは二ヶ月前にもらってたけど、完成したのは三日前だ。その前の文化祭の時も……そんな感じだったよな。去年の夏公演は……二週間前まで、台本の半分もいってなかったような気がする。
 ……それでもなんとかなってたなぁ。公演直前は徹夜続きで死にそうだったけど。
 氷河はお気楽な性質だった。
「まぁ、なんとかなるか」
 ほんの数分前に受けたショックからすぐさま立ち直り、あっさりと口にした氷河に江沢も尾上も信じられないものを見たかのような表情をしたが、やがて江沢がやれやれ、といったようにポケットに手をつっこんだ。
「越智らしいや。まぁ、確かにな。来週の段階で第一稿でも完成してれば、過去からすりゃあいい方か」
 そんな江沢に、尾上もため息をつく。
「……今回も苦労するな」
「お互いに」
 結局、その状況を受け入れるしかない。
 それでも、既成のホンでやってしまおうと言わない。皆が、進藤の書く世界が好きだった。
 こんな苦労も、実は心のどこかで楽しんでいるのかもしれない。
 苛つく事があっても、苦労していても、氷河はこの空間が好きだった。
「とにかく、これじゃ稽古のしようが無いからさ。役者陣が暑さでばててるし、また誰かが貧血起こしても困るから、日曜までは稽古休みにする。ホンが出来たら猛稽古にするから」
 尾上がメンバーを見渡しながら言うのを、黙って頷いた。

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