みつめる愛で 12

「やめろよ」
 その声色に、さっきまでの柔らかい空気が無くなってしまった事を感じショックを受ける。
 恐る恐る顔を上げると、思ったとおり不機嫌をあらわにした桐生の顔があった。
「桐生……」
「迷惑じゃないだろう、お前は具合が悪かったんだ。仕方がない。そういうふうに謝るな」
「……ごめん」
 どうしていいのか分からず、思わずまた謝ってしまう。
 すると、呆れたように桐生は肩をすくめた。
「俺は謝られるような事はしてない」
「……しかも、つきそっていてくれたんだよね?」
 肩身の狭さから、上目遣いに桐生を見上げてそう聞いた。
 すると、桐生の精悍な頬に僅かに朱がさした。
 ……え?
 ……もしかして、照れてる?
「あのオバサンがしゃべったのか……」
 片手で口元を抑え、横を向いた。
 あまりに意外なその様子に、俺はぽかんとしてしまった。
 超人的に見えていた。
 別の言い方をすれば、人間らしく見えなかった。
 こいつでも、こういう表情をするのか。
 いや、よく考えれば分かるのだ。
 あの人間味あふれるポートレートを取った男だ。サークルの仲間といる時には普通の学生なのだ。
 ……ただ、俺が存在すると、違うだけ。
 そんな結論に至ると少し寂しくなったが、……でも。
 今日は違う。
 素の桐生を見せてくれている。
「本当にありがとう。シャツも……あ、そういえば……これ、俺に貸してくれて、桐生、どうやって帰ったの?」
 ふと、当然の疑問に行きつき、それを口に出した。
 桐生は明後日のほうを向いていたのを、目線だけ俺に戻す。
「予備を持ってたんだよ」
「予備?」
「昨日の夜はバイトがあったから、着替えを持ってたんだ。いくらなんでも、自分が着ていたものを脱いで、そのまま人には貸さない」
 ……そういわれてみれば、そうだ。
「ありがとう」
 自分から桐生に近寄り、袋を手渡した。
 人間らしい桐生を見たことで、だいぶ緊張も解けて来ていた。
 桐生は袋を受け取り、不思議そうな顔をしてそれを覗き込む。
「あ、うちの母親が、お礼にって。……漬物なんだけど、食べられる?」
 原因に思い当たり、ちょっと恥ずかしくなりながら早口で言う。
 今朝、シャツを返しに行く事を母親に告げると、いそいそと彼女が用意したのだ。
 母親らしい気遣いもあるのだろうが、最近自分で作った糠に妙にこだわりと自信を持っていて、機会があればそれを色々な人に食べさせたいと企んでいるのだ。
 今日も、「いらない」とつっぱねたのだが、彼女は真剣な面持ちで
「でも、一人暮らしなんでしょう?こういう漬物には飢えているはずだから、持っていきなさい。日本人としての礼儀ですよ」
 と訳の分からないことを言い、強引に持たされたのだ。
 しかし、彼女自慢の漬物を見た桐生は表情を綻ばせた。
「嬉しいな。漬物は大好きなんだ」
 ホッとするような笑顔だった。
 それまでの、どちらかと言えば怖いような印象の面持ちから仮面が剥がれたかのような。
 思いがけない笑顔に心がほぐれ、俺も自然と頬が緩んだ。
 そしてその拍子にずっと言いたかった事を話し出していた。
「桐生、写真を撮っているだろう?……一年の文化祭の時に、たまたま写真研究会の展示を見たんだ」
 桐生は驚いたように俺を見つめた。
 俺は一番言いたかった事が、臆病に負けて止まらないように、一気に話し出した。
「ポートレートで……今でも覚えている。社会学部の教授だった。すごく生き生きした顔で……『やられた』とでもしゃべりだしそうなさ。本当に、そこから出てきてしゃべり始めそうなくらい、臨場感に溢れてた。写真見ているだけで、いろいろ想像できるんだ。どんな場面だったのかな、この人の私生活ってどんなだろうって……。気づいたら、その写真の前で数分間経っていた」
 桐生が言葉も無く俺を見つめていた。
 穴が開きそうなほど。
「で、どんな奴が撮ったんだって、プレートみたら……桐生だった。正直、それまでは……あんまりいい印象無かったんだけどさ……やるなあって……見直したんだ。で、その部屋を出ようとした時…出口のドアの上に……スナップがあった。とても綺麗な写真だった……あれも、桐生だろう?」
 桐生は瞳を見開いたまま一言も発さない。
 不愉快にさせたか?という思いもあったが、それよりも俺の中にはあの時の感動が鮮やかに蘇えってきて、動き続ける口を止める事が出来なかった。
「あれも、覚えているよ。霧の出た川面に、朝日が反射してきらきらしているんだ……小さいスナップなのに……すごく広い景色が広がっているのが分かった。で、理由もなく、分かった。これを撮ったのは、あのポートレートを撮った人と同じだって。今でもハッキリ思い出せる。瞼の裏に浮かぶんだ。すごいインパクトだった」
 桐生がゆっくり瞳を閉じた。
 桐生の視線が途切れる。
 しかし、俺は桐生の発する別の何かに捕らえられていくような……そんな感覚を味わっていた。
「覚えていてくれる人がいたなんて」
 低い、掠れた声がつぶやいた。
「……忘れられないくらい、いい写真だったよ」
 自然、こちらも小さな声になった。
 瞳を閉じたまま、何かをかみ締めるかのように……祈るかのような表情を見せ、そして静かに瞳を開いた。
 そこには不思議な穏やかさと、まろやかな優しさが漂っていた。
初めてみる……それまでの桐生からは想像できない温かさで、桐生の瞳の中にそれを発見した俺は、しばし見とれていた。
「上がっていく?」
 ふいに桐生が「友達のカオ」でそう言ったので、心底びっくりした。
「え?」
「お茶でも飲んでく?」
 ありえない。
 どちらかといえば、昨日までは睨みあっていた俺達なのだ。
 俺が熱を出し、汗をたっぷりかいた事で……なにか、黒い物も流れていったのだろうか。
 驚いている俺に、桐生は照れくさそうに笑う。
「……写真、他にも見ていくか?丁度この前撮ったのが出来たから……」
 信じられない!
 何が起こったんだろう。
 あまりの幸運に心臓が破裂しそうだ。
 空を飛べって言われたら、今の俺なら飛べるような気がする。
 俺は幸運を逃さないうちに、大きく頷いた。

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