午前三時

 ふっと、眠りの狭間から引き上げられたのは午前三時で、俺は壁にかかった時計が窓から差し込む街灯の明かりに照らされたのを見てそれを確めた。
 昨日はめずらしく熱を出して仕事を休んだ。昼間から寝て起きてを繰り返していたから、こんな時間に目覚めてしまったのだ。普段なら、こんな時間に目覚めればまたすぐに二度寝を……二度寝と言っていいのかどうかわからないけれど…決め込むところなのだが、どうしたことか、すっきりと覚醒してしまって眠気は遠い。それどころか、ひどい空腹を感じた。
 そういえば、夕食らしい夕食をとっていなかったことを思い出す。何かを食べようとベッドから起き上がろうとして、ようやく気付いた。
 広いベッドの端。
 俺から少し距離をおいたところで、あの人が眠っていた。
「…………あれ」
 一瞬、夢か幻でも見ているのではないかと、二、三度瞬きをしてきれいな寝顔を見つめる。しかし、どうやら夢ではないらしい。
 あの人は、スーツのままでベッドにもぐりこみ、いつのもようにうつ伏せになって静かな寝息を立てていた。肩を半分までしか覆わない毛布の隙間から白いシャツが覗いていて、それが、やけにあどけない印象を与える寝顔に妙に色香を与えていた。
「……いつ、来たんだろう」
 今年に入って、今まで以上に仕事に忙殺されるようになったこの人とは、カレンダーの休日ですらなかなか会うことが出来なくなっていた。
 あんまり会えないから、胸の中に定住してしまった寂しさはすっかり俺になじんでしまった。今では寂しさくんと俺はとても仲良しで、その感覚を寂しいと呼ぶ事さえ、半分忘れてしまっていたのに。
「…………ユズルさん」
 思わず、名前を囁いた。
 熟睡しているであろう、この人の耳には届かないだろうけれど。
 それでも、今、こうしてすぐ近くにいるこの人の存在を感じたかったから。
 指を伸ばして色素の薄い、柔らかな髪に触れる。半分崩れかけたセットをなおも壊すように指先で髪を弄ると、この人の髪が持っている本来のしなやかさが蘇り、俺の指の間をするりと流れ落ちた。
「……ねえ、俺の事、忘れて無かったんだね」
 髪を何度梳かれても、彼は身じろぎもせずにぐっすりと眠り込んでいる。
 こんなにベッドの端っこに寝なくても、もっと俺にくっついて眠ればよかったのに。
 ……ああ、でも、俺を起さないように気を使ってくれたのかな。
 それに、俺は風邪を引いていたから、あんまりくっつくとうつしちゃうかもしれないしな。
 本当は、そっと彼の体を仰向けにさせて、小さな、そして愛してやまない唇にキスをしたいところだけれど、ただでさえ多忙でまともに休んでいないだろう彼へ風邪をうつしてしまう事を恐れて、…それに、起してしまっては可哀想だから、それはやめておいた。
 ただ、彼の寝顔を堪能して、指で彼の体に触れて、そしてすぐ近くに彼がいるという事だけで満足しよう。
「ユズルさん、スーツ、皺になっちゃうよ?」
 明日だって、ウィークデイだ。もちろん出勤だろう。一度家に戻って、着替えてから出勤するつもりなのだろうか。俺のスーツもシャツも、サイズが全然違うから、貸してあげられないし。
 そもそもここは、ユズルさんの会社からだいぶ離れているから、家に戻って着替えて出勤するつもりなら相当早く起きなければいけない。何時に起きるつもりなんだろう。
 そこまで考えて、ふと気付く。
「……ユズルさん、自分の家を素通りしてここまで来てくれたの?」
 思わず声に出して、それから自分の頭を振った。
 いや、まさか。
 たまたま出先から直帰とかで、出先がここに近かったとか、ここの近くで接待したとか、そういうのだろう。で、帰りが遅くなったから、ここに寄ってくれたんだ。
「……ユズルさん」
 会えないのが寂しくないように、一人の時は出来るだけその名を呼ばないようにしていた。もの凄く久しぶりに口にした名前に、なぜか切なくなる。
「あなた、少し痩せたみたいだ」
 ちゃんと食事、取ってる? ……取ってないんだろうなあ。
 倒れなきゃいいけど。
 今は、あなたが倒れてもすぐに助けてあげられるような距離にはいないし。
 窓から差し込む灯りは、ユズルさんの青白い寝顔をくっきりと照らす。この明度に慣れた目に、ユズルさんの疲労の痕が色濃く残る顔がはっきりと見て取れた。
 そっと毛布を持ち上げて、ユズルさんの肩をきちんと覆う。
 本当はベッドの真ん中に横たえてあげたいけれど、体を引っ張ったとたんに彼が目覚めてしまいそうで、それは少し怖かったからしないことにする。
 なぜだろう。
 魔法がかかったように感じるのは。
 ユズルさんが、眠っている間だけ、見る事が出来る魔法。

「ねえ、……ユズルさん」

 いつの間にか空腹も忘れて、俺は愛しい人の顔を見つめ続けていた。

「……ユズルさん」

 囁いた名前は、午前三時の部屋の静寂に溶ける。

Fin