あなたのとりこ
またしても慌てて恭の後を追い掛ける。
「ありがとうございました」という店員の声を背中に受けて、晴樹はたまらない居心地の悪さを感じた。きっとあの店員の目には晴樹はものすごく怪しい客に映ったに違いない。恭と晴樹が連れだなんて、夢にも思っていないだろう。周りからどう見られるかなんて、そんなに気にするほうでもないが、それでも寂しさはやりきれない。
恭の後ろを追いかけていくと、早速パンの袋に手を突っ込む恭が見えた。恭の後を歩きながら、映画の感想を尋ねるのを諦める。ふわりふわりと動く癖のある髪は、寝癖に間違いない。柔らかくカーブを描く恭の髪を少しだけ見下ろし、歩調を恭に合わせてながら、これは本当に付き合っていると言えるのだろうかと晴樹は百回以上は繰り返した自問自答をまたループする。晴樹にとっては究極の禅問答だ。
映画館を出てから一言も話をしていない。
そして、ふとその事実に思いあたり、気粉れな恋人に慣れたはずなのに、また落ち込む。不覚にも鼻の奥にきゅうっとしたものを感じてしまった時。晴樹の鼻先に、ふわりと優しい香りがした。
驚いて立ち止まると、千切ったパンを掴んだ恭の手が顔の前に付き出されていた。
少しの間、状況が読み込めずにパンと恭とこちらに向かって伸ばされた腕を眺めていたが、ようやく「食べろということか?」と思いあたり口を開いた。そして、恭の差し出すそれを、ぱくりと口に入れる。一口よりは大分大きいそれは、まだ暖かくて、そして皮を噛むと香ばしさが鼻を抜けた。
晴樹がパンを噛んだのを確認し、恭はまたくるりと前に向き直ると、今度は自分でパンをかじりながらすたすたと歩いていく。
だから、晴樹は恭から離れられない。
恭の無言すら、やっぱり愛しいと感じるのだ。
固い皮に比べて、もっちりとした柔らかさを持った中身を味わいながら、晴樹は恭の影を踏んで後を追い掛けた。
味気無いと思っていたフランスパンは、噛めば妙に味わい深く、やけに美味しく感じて、晴樹は家に辿りつくまでのあいだ、ずっと恭の後姿とフランスパンの後味を楽しんだ。
Fin
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