天空の森

天空の森

 転勤が決まって、慌しく引越しの準備をした。
 所詮一人暮らしだし、大して荷物もなく簡単に終わると甘く見ていた引越し作業は意外に大変で、その間に送迎会があったりしてなかなか守田の顔を見に行く時間を取る事が出来なかった。
 守田は、大学時代の俺の片思いの相手だ。
 いや、正確には今でもまだ守田が好きだ。
 顔も性格も、一緒に行った温泉でちらっと見ただけだけの細いその体も、俺の好みだった。
 しかし守田は、あろう事か他の男を選んだ。
 俺が守田はノンケだろうと二の足を踏んでいる間に、果敢にもアタックをかけて守田をあっさりと落としたのは、木崎という男だった。
 結局俺は、その後も守田とずっと友達をやっていて、ついでに木崎とも悪友のようになって、別れる事もなく付き合い続けている二人を見守り続けている。

 引越しの前日、ようやく午後時間が取れた俺は守田たちが住むマンションへと出かけていった。
 流行に乗ってベンチャー企業を立ち上げた木崎が買ったという、まだ三十に手の届かない二人には少し豪勢すぎるようにも感じるマンションだった。それでも、そのマンションを二人の名義にしたのだと木崎から聞いた時、この先もずっと守田と一緒に生きていくのだという強い決心を聞いたようで、羨ましいような、負けを認めたような、そんな気分になったのも事実だ。
 エントランスでインターホンを押し、オートロックを解除してもらって中に入る。
 高層マンションの二十七階でエレベーターを降りる。東南の角の広い部屋が二人の住処だった。
 勝手知ったる奴らの家、という事でチャイムも押さずにドアを開くと、いつも通り鍵のかかっていないそれはあっさりと開いて俺を迎え入れる。
 男の二人暮しにしては綺麗に片付きすぎた感もある玄関を通り過ぎ、まっすぐに南のテラスに面したリビングへ向かうと、窓際に置かれたカウチの傍に座り込んでいた守田が顔を上げた。
「よう」
「観月。ようやく来たね」
 俺の顔を認めて、守田はにこりと綺麗な笑顔を見せた。
 テラスから差し込む午後の日差しはとても柔らかくて、それが守田の整った面差しをふんわりと縁取る。
 もう手に入らないと分かっていても、守田はいつも俺の目と、それから心を奪っていく。
「なかなか時間取れなくて。悪いな」
「成(ナル)も、ずっと観月が来るのを待っていたんだよ」
 守田は木崎の名を呼んで、傍らで穏やかな寝息を立てる男を見下ろした。
 日差しの差込む暖かそうな窓際のカウチで、木崎は今日もぐっすりと眠り込んでいた。

 キッチンに立った守田に、手土産のミネラルウォーターを渡す。
 木崎が眠るようになって以来、この家に来るときの俺の手土産はかならずミネラルウォーターだ。
 守田の強い要望だった。
 守田は、水以外の手土産は受け取らない。
 それも、外国の水は駄目だった。
 かならず日本の水でなければいけない。
 さらに、出来れば「南アルプスの天然水」がいいのだと言った。
 南アルプスは、木崎のふるさとだから。南アルプスの天然水を、木崎が一番喜ぶのだと。
 俺にはわからないけど、木崎の一番近くにいる守田がそういうのだから、そうなんだろう。
 俺と守田は、木崎が眠りこけているカウチの傍のローテーブルを挟んで向き合った。
 テーブルの上には守田が入れてくれたコーヒーがある。
「いつ行くの?」
 コーヒーを啜って、守田が穏やかに問いかけた。
「明日」
「明日? ……って、明日。早いなあ。もっと前に来てくれれば良かったのに」
「なかなか時間が取れなくてね」
「九州だっけ? でも、ずっと行ってるわけじゃないんだろ? いつごろ戻ってこれそう?」
 守田は翳りのない純粋そのままの眼を俺に向けて問いかけた。
 俺は曖昧に笑って返事を避ける。
 不毛だ。
 俺は、このまま守田が手に入らないのなら、もう東京に戻ってこなくてもいいかとさえ思っている。
 さすがに、口には出来ないけど。
 ちらりと、守田の傍らでぐっすりと眠っている木崎を見た。
「こいつは……」
 いつまで寝ているのだろうか、と。
 俺に向けられた問いをそのまま流して逆に問い返してやろうかとも思ったが、それも守田が可哀想な気がしてやめた。
 いつ、木崎が目覚めるのか。
 それを一番知りたいのは守田だろうから。
 守田にそれを聞くのは……言葉にするのは、意地悪すぎる。
「成?」
 俺の視線を追って、守田が木崎を見た。
 木崎を見つめる守田の眼差しは限りなく優しい。
「成も、観月が戻ってくるのを待ってるよ。俺達は観月に会いにいけないから、観月が時々ここへ遊びに来てね」
 守田はそう微笑んで告げると、ゆっくりと立ちあがった。
 そして、しげしげと眠り続ける木崎を見下ろす。
「どうした?」
 問いかけると、守田は少し首をかしげながら木崎にかけていたブランケットを取り上げて丁寧に畳んだ。
「今日はそんなに寒くないから、ブランケットは無いほうがいいかなと思って」
「……そうか? ……そうかもな」
「ブランケットが無いほうが、良く日に当たるしね」
 守田は今日もそんな事を言って、にこりと笑った。
 なんでも、眠り続けている木崎には、よく日光に当ててやる必要があるのだそうだ。
 俺には全くその理由も根拠も分からなかったけれど、守田は日に当てるために、自分よりかなりでかい木崎の体を、晴れた日は頑張って窓際のカウチまで運んでそこに横たわらせる。
 そして、夕方になるとまた木崎を寝室のベッドへと運ぶのだ。
 木崎はずっとバレーボールをやっていたから背も高いし筋肉も付いている。それを小柄で華奢な守田が運ぶのは相当大変だろうと思うが、その習慣は木崎が眠り始めた日から欠かしていないのだという。なんだかんだいって、守田も男だしな。
「木崎、良く寝てるな」
 守田の淹れてくれたコーヒーを啜りながら木崎を眺めると、守田はにっこりと笑った。
「うん。そうだね。きっといい夢を見ているんだと思うよ」
「……木崎のいい夢、って、きっと守田が出てくる夢だぞ」
「だといいけど」
 守田は、木崎の事になると何にも動じない。
 ただ、笑顔で全てを受け入れている。
「水、木崎はいつ飲むの?」
 何となく聞いてみると、守田は眠っている木崎の前髪を優しい手つきでかき上げながら答えた。
「一日一回。朝がいいんだ。朝、たっぷり飲ませる」
「朝だけ?」
「こまめにあげるより、一回にいっぱいあげた方がいいような気がするから」
 守田は自信たっぷりに答えた。
「……こいつ、寝言言ったりする?」
 守田とせっかく……ある意味二人きりだというのに、どうしても会話の方向は木崎になってしまう。
 こいつは、ここで寝ているだけなのに、やたらと存在感があった。
 それは守田が、常に木崎を気にして、奴に触れているからなのかもしれない。
「うーん……たまーに…」
「え、言うの?」
 守田の返答が意外に思えて食いついてみせると、守田は薄く笑んだまま頷いた。
「何て言ってるかは分からないけどね。言うよ。なにか」
「……お前の名前じゃねえの?」
「はっきりと言葉にはなってないんだ」
 それでも、木崎の寝言なんて守田の名前か、守田への睦言以外には無いような気がするけどな。

 若くして会社を立ち上げた木崎は、それこそ寝る間も惜しんでひたすら仕事をし続けた。
 仕事が楽しかったのはもちろんだろうし、会社をでかくしたかったのもあったのだと思う。
 多分、根底にはずっと守田との関係を護っていけるだけの確実なものが欲しかったのだろうと俺は想像する。
 それは、たとえばこの家みたいに。
 
 お前は、頑張りすぎたんだよ。

 寝ている木崎に、心の中で何度も語りかけた。

 木崎は、ある日からずっと眠り続けるようになった。
 遅刻なんてした事の無かった男で、毎朝目覚ましよりも早く起きていたのに、その日は時間になっても木崎は起きなくて、守田は起すのもためらわれたのだという。
 木崎は、それから眠ったままだ。

 俺はその話を守田から聞いた時に、これはひょっとしてひょっとするかも、と思った。
 だって、眠り続ける男より、動いて、抱きしめて、好きだって言ってくれる男の方がいいだろ?
 俺にもついに運がめぐってきた、って。

 ところが、そうじゃなかった。
 守田は、眠り続ける木崎を今までの何倍も愛しげに見つめた。

 守田に会う前に、今日こそこいつを手に入れる、といくら強く決心しても。
 木崎を見つめる守田の視線を目の当たりにすると俺はいつもくじけてしまう。
 言いたかった言葉は、もうずっと胸の中に堆積したまま、すっかり腐ってしまっている。
 今日も。
 ……だめだな。

 窓の外、日はだいぶ傾いてきた。
 守田は木崎を運ぶ時間で、その後は俺は多分この家から退散した方がいい。
 日が落ちた後の、この部屋にいるのは何だか怖かった。

「じゃあ、守田。……それから、木崎。俺、もう行くね」
 暗くなり始める前、まだ日が落ちる前に俺は腰を上げた。
 多分、もうここへ来ることも無いような気がする。
「……元気で。頑張ってね」
 守田は、木崎の言葉を代弁するかのようにそう言った。
「お前らもな」
 俺は頷いて、立ち上がる。
 カウチの上の木崎は相変わらず瞳を閉じたままだった。

 ……なんとなく、この部屋は。
 空気が澄んでいて、気持ちがいいな、なんて。
 俺は、心のどこかでそう思った。

 一人、マンションを後にして、なんとなく後ろを振り返る。
 都会の空に乱立する高層の建物が夕日に照らされて、その中にあいつらがいるんだと改めて思った。
 木崎が眠り続けることで、木崎の二十四時間を守田は独占できるようになったわけで。
 守田を好きな俺としては、結局、守田が幸せならそれでいいのかもしれない。
 明日のこの時間は、俺はもう遠い地にいて、多分二人とはもう合わないのだろうけれど。
 木崎の寝顔を慈しむ様に見つめる守田の眼差しは、きっとずっと忘れないだろうと思った。

Fin