鍵は、職員室にも事務室にも無くて、窓の外はすっかり暗くなっていたからあきらめてバスで帰る事にした。
スペアキーが家に帰ればあるはずだから、それを明日持ってこようと思って。
校門へ疲れと空腹で重くなった足を引きずるようにして向かうと、背後から声がかかった。
「バカ真琴」
三歳の時から聞きなれたその声に、俺は振り返る。
自転車をまたいだ姿勢で、校門のそばの桜の木の影で龍之介が佇んでいた。
「何やってんだよ」
「……自転車の、鍵なくしちゃって」
喉をついて出てきた言葉は、最近の俺からは信じられないくらい、素直な、子供のような響きをしていて、我ながら驚いた。
「見つからなかったの?」
龍之介が自転車をこいで俺の隣へと移動してくる。
俺はこくんと頷いた。
「だから、バスで帰る」
そう返事をすると、暗がりの中でもはっきりわかるくらいに龍之介は顔をしかめた。
「バカ真琴。乗れよ」
そんなにバカバカ言わなくても。。
それでも、不思議と腹立たしくはならず、俺は素直に自転車の後輪の軸に立って龍之介の肩に両手をかけた。
「ちくしょー、腹減った。お前がイキナリいなくなるから」
ぐい、と自転車を漕ぎ出しながら龍之介がいつになく高校生らしい言葉遣いをした事に気づいた。
品行方正を絵に描いたような、この幼馴染が。
「たこ焼き、食っていこうぜ。真琴のおごりで」
自転車はすいすいと夜道を進む。
龍之介がぐい、とスピードを上げた。
俺の了解を待たずに自転車は駅前へと向けて走り出した。
俺は龍之介の肩をしっかりと掴む。
掌の下に、龍之介の固い筋肉を感じて、また少し胸が高鳴った。
部屋に戻ると、まずは電気をつけて、それから一番に手にするのは、ステレオのリモコン。
電源を入れてプレイボタンを押すと、ステレオからレッチリが流れ出す。
何回も何回も聞いて、細かいギターのフレーズや意味の分からない英語の歌詞まで覚えてしまうくらいに聞き込んだアルバムだけど、でも全然飽きる事が無い。
これくらい、熱心に勉強してくれたらねえ。
今月の頭、もらったばかりの小遣いの大半を新しいCDに化けさせて、CDショップの袋を抱えて帰ってきた俺を見て母親がそう嘆いた。
まったく、俺もその通りだと思う。
せめて、もう少し勉強できればあの幼馴染の隣にいるのが相応しくなれるような気がする。
……ホント、今更だけど。
制服を脱いで部屋の隅に放り投げ、ジーンズとトレーナーに着替えたところで、窓の外から「まーこーとー」と俺を呼ぶ声がした。
カーテンを開いて窓を開けると、隣の部屋の窓から龍之介がこっちを見ていた。
部屋の明かりが逆光になって龍之介の輪郭を縁取る。
そんな姿にまた胸が高鳴った。
「なに?」
窓から吹き込む風はさすがに少し寒くて、わずかに身震いしながら問うと、龍之介がグーにした片手を軽く翳す。
「これ」
「え?」
龍之介のグーが、モノを投げるように振りかぶり、柔らかな弧を描いて飛んできたソレは、俺の胸のところへ落ちてきた。
両手で受け止めた、その小さな塊は……
「鍵!」
「拾ったんだ」
しれっとした顔で言った龍之介が、どことなく笑っているように見えた。
「どこで?」
「……内緒」
何かを企んでいる時のアイツは、本当に分かりやすい。
楽しいのを声に隠しきれていない。
「教えろよ。どこにあったんだよ」
「秘密。これで明日は自転車で帰れるな」
そこで、はたと気づいた。
自転車の鍵は、学校に落ちていたはずだから、龍之介がこれを拾ったのは、俺達がまだ学校にいた時で……
「お前、もっと早く渡せよ」
「帰り道、楽できたからいいだろ?」
恨みがましい声で言ったのに、龍之介は相変わらず楽しそうだ。
「お前にたこ焼きおごってやっただろ?!」
「でも、美味しかったからいいじゃん」
ああ言えばこう言う。
いつの間にか、幼馴染は格好いいだけじゃなく、成績が良くてスポーツが出来るだけじゃなく、口も立つようになってしまった。
「まーこーと、それからコレも」
押し黙った俺に、続いて龍之介はもうひとつ、今度はこぶし大の大きさの物を投げてよこした。
反射的にそれも受け取った時、甘い香りがふんわりと香った。
「……なに、コレ」
「知らない。お菓子じゃない? 俺の下駄箱に入ってたからちょっと汚いかもしれないけど」
龍之介の言葉で、思い出す。
下駄箱の中の、ピンクの包み。それから、胸にしつこいくらいにまた生まれる鈍い痛み。
「……お前、ダメだろ、こういうの人にあげたら」
いくら俺でも、あのピンクの包みの意味くらい分かる。あれは、誰かが龍之介に食べてもらいたくて用意したものだ。
「俺、いらないから。真琴もいらないなら捨てて」
さらりと、まるで悪びれずに龍之介が言う。
酷い奴だ、と思うのと同時に……少しだけ、それを喜んだ俺がいた。
「……誰から、だったの?」
問う声は知らず、小さくなる。
龍之介は少しの沈黙の後に、「井野さん」と答えた。
「井野さん?!」
「……うん」
それなら、なおのこと俺が貰うわけにはいかないだろ。
しかもこの男はどうして、彼女がくれたものを俺に渡そうとするのだろう。
「井野さんがくれたものくらい、自分で食えよ」
先ほど渡された包みを龍之介に投げ返そうとすると、龍之介はストップ、というように手でサインを送る。
いらないんだよ。……なに、もしかして真琴も井野さんのファンだった?」
見当外れな事を言う龍之介を睨む。
「そんなわけないだろ。……お前、彼女にもらったものを、いらないとか言うんじゃねえよ。簡単に人にあげるんじゃねーよ」
言いながら、あれ、と思う。
龍之介って、こんな冷たいようなところがあったっけ?
俺の知っている龍之介は、いつだって、親切で、優しくて。言葉にしないところまで気づいてくれて、気遣ってくれた。
少なくとも、人から貰ったものを、いらない、なんて人でなしなセリフを吐いて他人にあげようとする男ではなかったように思うのに…
「……真琴、ちょっと待って」
ややあって、龍之介がいぶかしげな声を出した。
「…彼女って、誰のこと? 誰の彼女?」
「……とぼけるのかよ。井野さんだよ。つきあってるんだろ」
言葉にしながらまた胸が痛んだけど、できるだけ感情を込めないようにして言った。
「……俺と、井野さんが?」
「松浦に聞いた。井野さんから告白されたって」
言いながら、胸が少し痛んだ。
でも、これが事実だから。仕方が無いんだ。
そう言い聞かせたのに。
一瞬の間の後、空間を隔てた向こうで龍之介は大爆笑した。
「……あははは、ナニ、それ。面白い! 松浦って、真琴とよく一緒にいるあいつだろ? 俺と、井野さんが? なんでそんな事になってんの」
「龍之介?」
腹を抱えて笑い転げる龍之介の姿が窓の向こうに消える。それでも笑い声がずっと聞こえているから、多分カーペットの上を転げて笑っているんだろう。
「ちょっと、龍之介」
げらげらと、あんまりにも長く龍之介が俺から見えないところで笑っているもんだから、俺はついに不安になって大きな声で呼んでみた。
するとようやく龍之介が窓の向こうに姿を表す。笑いすぎて涙が滲んだのか、手の甲で目元を擦った。
「真琴ぉ。それは誤解だ」
「誤解?」
わけが分からず問い返すと、龍之介はまだ笑ながら頷いた。
「付き合ってない。その、好きだって言われたのは本当だけど、ちゃんと断った」
言われて、今度はこっちからものすごく納得出来ない声をあげなくてはいけなかった。
「……は?」
「は、って?」
「お前、なんで断るわけ?」
「なんでと言われても」
「井野さんだぞ?」
「そうだよ」
みんなが当然のように認める、あれだけの美人なのに。
いったいコイツにはなんの不満があるっていうんだろう。
「真琴、相手が美人だったら、付き合わないといけないわけ?」
俺が口を開きかけたところで、龍之介が俺の頭の中を読んだように静かにそう言った。
おかげで、言おうとした言葉を失ってしまう。
「……」
「井野さんは確かに美人だけど、俺は井野さんが好きじゃない」
「……え」
「俺には、好きだと思う人がいるから。その人以外とは、ちょっと考えられないよ」
どくん、と胸が鳴る。
好き。
龍之介の言葉の中で、意味を理解するよりも強烈に、その音が強く耳に響いた。
好き。
「真琴は?」
「……え?」
「好きな人、いないの?」
龍之介の声が、なんだかやたらと真面目に聞こえるのは俺の気のせいだろうか。
反射的に首を横に振りかけて、………何かが引っかかって、それから曖昧に、頷いた。
「……いる、よ」
いるよ。
今、目の前に。
もう、ずっとずっと、一緒にいた幼馴染。
「……どんな人?」
龍之介の問いに、息を飲んだ。俺は龍之介を見る事が出来ず、二軒の家を隔てる低い茂みへと視線を落とす。
「………」
何も、言葉にならない。
言ってしまったら。
俺が好きなのはお前だって。
俺は、ずっと龍之介が好きなんだって。
言ってしまったら、どうなるんだろう。
女の子にはモテても、まさか男にまで恋心を抱かれているだなんて、夢にも思っていないだろう。
言ったら……
やっぱり、避けられるだろうか。
少なくとも、嬉しくは無いだろう。
「……内緒」
さっきの龍之介の言葉を借りて返事をする。
それを聞いた龍之介は、ひゅ、と器用に片眉だけを上げた。
俺の背後でずっと流れていたレッチリの曲が終わる。
次の曲がなかなか流れなくて、妙に長く感じる沈黙がその場を支配していた。
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