ハブラシ

 どこかで砂が落ちたようなきがして顔を上げた。
 しん、と静まり返る夜の気配。どこかで虫が鳴いているのが聞こえる。
 アイツは、まだ帰ってこない。
 見上げた先の時計は丁度0時を指していて、俺は何となくため息をついて立ち上がった。
 アイツの仕事柄、シフトはあくまで大体の目安であって。早番の日であっても終電を逃す事はザラだ。
 今夜もきっとそうなのだろう。
 いつ帰ってくるか分からない奴を待っているのもバカバカしくて洗面所に向かう。
 さっさと歯磨きをして寝てしまおう。
 こっちは明日も朝から仕事なんだから。

 洗面所とは名ばかりの、ユニットバスの中の一角。据え付けられた鏡の中に、これといって特徴の無い顔が映る。
 二枚目でもなければ、不細工でもない。
 平凡そのものの、すれ違っても記憶の端にすら残らないであろう、ありふれた顔。
 ……どうして、アイツが俺を選んだのか、俺は本当に分からない。
 鏡の前に、白いプラスチックのタンブラー。その中に並んで立っているハブラシの、緑色の方に手を伸ばしかけて、止めた。
 ブラシの先がだいぶ広がっている。
 俺は趣味が歯磨きと言ってもいいくらいに歯を磨くのだ好きだ。歯磨き粉の味も好きだし、ひらすら、立っているか座っているかして、コシコシと手を動かすのが好きだ。
 大抵、すごく下らない他愛の無い事を取りとめも無く考えながら、気付けば30分くらいは磨き続ける。
「歯のエナメル質が削れるから、ほどほどにしておけ」
 と、一緒に暮らし始めた頃、アイツは大きな砂時計を買ってきた。
 大きなそれを歯磨きを始めるときにひっくり返して、砂が落ちきるまで。一日一回だけ。
 アイツが真面目な顔でそういって、窓枠の上にそれを置いた。
 
 緑のハブラシは俺ので、だからあっという間にダメになってしまう。対してクリアブルーはアイツの。
 滅多に家にいない上に、歯磨きもものの30秒で終わらせてしまうアイツのは、俺のと一緒にパッケージから出したにも関わらず殆ど新品同様に見える。
「…………」
 何となく、悔しくなってアイツのハブラシを指先で弾く。
 カコン、と音がして。
 傾いたクリアブルーはタンブラーの淵に当たって方向を変える。
 毛先の開いたグリーンにぶつかって、グリーンと並ぶようにタンブラーに寄りかかった。
「…………」
 俺は顔を寄せて、タンブラーの中の二つをじっと見つめる。
 使い込まれた緑と、よく見れば少しだけ毛先の乱れたクリアブルー。
 その時、リビングで聞きなれた短いメロディーが鳴った。
 アイツからのメールを知らせる、指定着信音。どんなに遅くなっても、必ず欠かさない、帰るコール。
「…………ちぇっ」
 なんだか毒気が抜かれたような気がして、それでも頬が緩んでしまった。
 明日、二本とも買い換えよう。
 そう思いながら緑を取り上げて歯磨き粉を乗せる。
 たっぷり30分。
 リビングまで移動して、砂時計をひっくり返して窓を開ける。
 口をすすぐ頃には、アパートの前で止まるタクシーが見えるだろう。

Fin