しようよ。 1

 僕が小学生になったら、りっちゃんは中学生になった。
 僕が中学生になったらりっちゃんは大学生。
 僕が高校に上がった年、りっちゃんはイギリスに留学した。
 そして、やっとりっちゃんは戻ってきた。

 僕が高校2年生になった、夏。

しようよ。

 僕の部屋は玄関ドアのすぐそばの6畳間。窓の外はマンションの内廊下だ。コンクリートで出来たマンションの廊下は音が響く。
 僕は小さいときからインドア派だから、自分の部屋にいる時間が長かった。だからこの部屋の中で、吹き抜けになったマンションの中庭の空間に響く音と、そこを囲むようにコの字型に作られた内廊下の音をずっと聞いて過ごした。
 廊下を歩く足音には、それぞれ特徴がある。
 僕は足音だけでだいたいそれが誰だか当てることができる。こんな特技、あんまり役に立たないけど。それでも一つだけ、僕にとってはとっても役にたってることがある。
 それは、りっちゃんの足音を聞きつけて、いち早く帰ってきたりっちゃんをお迎えできること。

 エレベーターが僕のいるフロアに到着する。ちいさな機械音。
 僕は読んでいた本から顔を上げて反射的に時計を見た。
 午後7時。
 りっちゃんがそろそろ帰ってくる時間だ。
 エレベーターを降りる足音。靴のかかとがコンクリートを打つ音。リズム。
 僕は息を詰めて、数歩分のそれを確認するとしっかりとした確信を持って立ち上がった。椅子の背に掛けておいたパーカーをつかんで袖を通しながら部屋を出ると、居間からお母さんが声をかけてきた。
「悠貴、出かけるの? もうすぐご飯よ」
「後で食べる! りっちゃんちに行ってくる!」
 玄関で靴を履きながら答える。お母さんがあらあらという顔をしているのが目に浮かんだ。僕がりっちゃんの帰宅に合わせてりっちゃんの家に行くのは子供の頃からの日課で、お隣のりっちゃんの家は半分僕の家みたいになってる。
 ドアを開けて廊下に顔を出すと、ちょうどりっちゃんがコーナーを曲がったところだった。
「りっちゃん!」
 りっちゃんに会えたのが嬉しくて、自然と声が弾む。僕は転がるようにしてりっちゃんの傍に駆けていった。
「ただいま、悠貴。いい子にしてたか?」
 背の高いりっちゃんは、犬みたいにまとわりつく僕の頭を、その大きな手でぽんぽんと軽くたたいて撫でてくれる。僕はそれをが嬉しくて、もっとしてほしくてつい目を閉じてりっちゃんの手に頭を寄せてしまう。
「いい子にしてるよ、いつも。りっちゃんち、今日は冷やし中華だっておばさんが言ってた」
 廊下でおばさんがうちのお母さんと話していたのが聞こえたから、それをりっちゃんに教えてあげる。りっちゃんは「そうか」と嬉しそうに笑って、僕の髪をぐしゃぐしゃとかき回した。そうしているうちに、あっという間にりっちゃんの家の前だ。りっちゃんは鍵を出してドアを開けると、まず先に僕を中に入れてくれる。そうしながら「ただいま」と中に声をかけた。
「おばさん、こんばんは」
 毎晩の挨拶をしてりっちゃんの家に入ると、おばさんがキッチンから顔を出して「こんばんは、悠貴くん、おかえり、律」と迎えてくれた。
 革靴の紐を丁寧にほどいて靴を脱いだりっちゃんは、僕と一緒にまず自分の部屋に入る。部屋の位置は僕の部屋と同じ、玄関の隣。けれどりっちゃんの部屋はとてもシックできれいに片付いていて、そしてなんだか大人のにおいがする。 僕はいつもりっちゃんの部屋に入るたびに、ちょっとドキッとする。それはりっちゃんが大学生になって、そしてイギリスから帰ってきてからより強くなった。
 りっちゃんが鞄を置いて、上着を脱ぐのを僕は壁に凭れたままじっと眺める。背が高くて均整がとれたりっちゃんの身体はとてもきれいで、服を脱ぎ着する様子はまるでモデルのようだった。
「悠貴は今日は何してた?」
 スマホを充電器に差すと、りっちゃんは僕を見て、おいでおいでと手招いてくれた。それをずっと待っていた僕は、一も二もなくりっちゃんの傍に寄って、ぎゅうっと正面から抱きつく。前はマンションの廊下で会ったらすぐに抱きついていたけれど、中学生になった時にりっちゃんから「悠貴ももう大人なんだから、人目がある場所でこういうのは無しにしよう」と言われた。その代わり部屋の中でりっちゃんが準備OKならいつでも抱きついていいことになった。もちろん、僕はいつでも準備OKだ。でもりっちゃんは忙しいから。
「学校行って、帰ってきて、本読んでた。りっちゃんが貸してくれたやつ」
 顔をりっちゃんの胸に押し付けて、りっちゃんの匂いを胸いっぱいに吸い込みながら答える。りっちゃんの手が僕の背中に回されて、優しく抱きしめられた。僕はそれだけで蕩けるほどに幸福でたまらなくなる。
「フィンチの嘴。面白かった?」
 りっちゃんの声が近い。
 りっちゃんは片手で僕の髪を梳くように撫でて、片手で僕の背中を撫でた。
「うん。生息する場所でかたちが変わっていく、って。島ごとに違うのとか、面白い」
 りっちゃんが大学の授業で使って面白かったといって貸してくれた本は、正直僕にはちょっと難しいところもあったけれど、りっちゃんが勧めてくれる本なんだから頑張って読む。
「悠貴、本はいっぱい読んでおくんだよ。テレビを流し見してるとどんどん頭が弱くなるけど、質のいい本は悠貴のココとココを豊かにしてくれるからね」
 そう言いながらりっちゃんは僕の頭と、胸を指先で軽くつついた。
 りっちゃんのきれいな指先がちょうど心臓の上に触れる。
 その瞬間、僕は思わず呼吸を止めた。
「………うん」
 僕の胸の中心に触れるりっちゃんの指に視線を落とす。
 りっちゃんの指はすぐにすっと離れ、もう一度、ぎゅっと僕を抱きしめた。

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