文月 1

 27階のオフィスから見る東京の街は、近くもぼんやりかすんでいた。天気が悪いわけではないから、スモッグだ。
 雲間から差し込む光の下で蜃気楼のように街に連なる建物がゆらめいて見えた。この様子だと暑さはもちろんのこと、湿気もあるし、呼吸しにくい空気がたちこめていることだろう。
 俺はネクタイを結びながら自然とため息を漏らした。
「久野さん、そろそろ行きますか」
 いつの間にか近くに来ていた辻が低い声で話しかけてきた。
「ああ、そうだな」
 辻は俺の頭越しに窓の外を見る。
「今日も暑そうですね」
 背が高い辻はがっちりした筋肉がついていて日焼けもしていた。その身体を包むシャツの上からも盛り上がった筋肉が分かる。
「辻は俺よりも暑そうだな」
「え?」
「筋肉量が多いと身体が熱くなりやすいんだろ」
「……ああ、まあ燃焼しやすい感じではありますね」
 少しだけ相好を崩して辻が言った。並んでオフィスを出ながら俺は190cmちかい辻を見上げる。
「大学卒業して2年だろ。今でもまだアメフトやってんのか」
「もうやってないですよ」
「でも筋肉、全然落ちてないんじゃないか」
「個人的には鍛えてますから」
 体躯に見合った低い声で話す辻は、最初、愛想が悪いのかと思った。けれど独特の低音がそう聞こえるだけで、辻自身は落ち着きのある真面目な青年だと、一緒に仕事をするうちに気づいた。
「久野さんは、暑さに弱そうですね」
 辻が少しだけ瞳を細めて俺を見下ろす。そりゃそうだろう。基本的にインドアだから筋肉もあまりついていないし、日焼けしないから白くてヒョロヒョロだし。
「弱いよ。特にこういう空気が澄んでない日は」
「今日は息苦しそうですしね」
 エレベーターホールに着くと、辻が長い腕を伸ばして下行きのスイッチを押す。
「……ちゃんとメシ、食ってますか?」
 並んでエレベーターを待っていると、辻がぼそりとそう問いかけた。
「え?」
「……久野さん、春から少し痩せた気がします」
 心臓がどくんと音を立てる。
 夏になると職が細くなるのは昔からだが、今年は更にある事情があってもともと少ない食欲がさらに減退していた。
「あ……そうかな。確かにあまり食べて…」
 言いかけたところで上から降りてきたエレベーターが到着し、扉が開いた。中から降りてきた人物を見て、俺ははっと息を飲む。
 ……このタイミングで。
 多喜さんはまるで外の暑さとは無縁のように、涼しげに見えた。シワ一つないシャツに、胸元にはネクタイのノットがきれいに左右対称な正確さで鎮座している。
「久野」
 エレベーターの中にいたのは多喜さん一人だけで、多喜さんは俺を見て条件反射のように俺の名を呼んだ。
「お疲れさまです。これから外出なんです。行ってきますね」
 不自然にならないように。
 俺はできるだけいつもと同じトーンであいさつをし、愛想よく笑って多喜さんとすれ違いにエレベーターに乗り込んだ。一歩遅れて辻が俺の後に続く。鼻孔に、多喜さんがいつもつけている品の良い香水の渋い香りが僅かに感じられた。
「……気を付けて」
 多喜さんは何かを言いかけ躊躇し、けれどエレベーターの扉が閉まる直前にそう声をかけてくれた。

 多喜さんは俺たちの課の上司で、俺がとても懐いていた先輩でもある。
 俺よりも4年先輩で、穏やかな物腰と視線と、見事なまでにダンディにきまった身だしなみが印象的な人だった。入社して1年間は研修と称し各部署を回る。その後営業部に配属された俺の指導担当で、俺は何かと多喜さんに世話になり、いつも後を付いて回った。多喜さんには仕事を教わり、モノの考え方を教わり、顧客との会話術を教わった。そしてスーツや靴の手入れの仕方や時計の選び方、ネクタイのじょうずな結び方まで教えてくれた。
 柔らかい物言いと包み込むような雰囲気。
 俺はとっくに自分の性癖を自覚していたけれど、まさか同じ会社の先輩を好きになるなんて思ってもいなかった。けれど多喜さんを知れば知るほど、一緒にいれば入るほどに強く惹かれ、好きにならずにはいられなかった。多喜さんにはそれだけの魅力があり、俺は先輩としても人としても多喜さんが大好きだった。
 多喜さんと仲良くなりたいあまりに、多喜さんのマンションの最寄りの駅へ引っ越し、休日も一緒に遊ぶようになった。ただ一緒にいられるだけでも、満足だった。だからこのまま黙っていようと思っていた。多喜さんの後輩でいられるだけで幸せだからと。
 多喜さんと出会って3年が過ぎたころ、あっさりと俺は自分からバラしてしまった。多喜さんは昇進して役職が付き、部内の何人かが入れ替わる異動があった。その歓送迎会の後の帰り道。
 同じ駅で降りて、互いの家がある方向へと並んで歩きながら、俺はとても気分が高揚していた。
 飲み会の最中、隣に座る多喜さんと何度か手が当たったからかもしれない。
 帰りの電車の中で触れた肩の感触が心地よかったのもあるだろう。
 酔いも手伝い、気づけば歩きながらぽろりと俺は気持ちを言葉にしていた。
 多喜さんはひどく驚いた目をして俺を見ていた。
 その多喜さんの顔を見た瞬間、しまったと思った。
 やってしまった。
 言っては、いけなかったのだ。 

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