文月 2

 多喜さんは立ち止まったまましばらく俺を見ていて、俺も何も言えずに多喜さんを見返していた。
「すみません」
 も
「冗談です」
 も言えなかった。
 多喜さんの驚いた顔が、ものすごい衝撃だった。
 なんで、一瞬でも受け入れてもらえるかも、なんて思ってしまったのだろう。

 春先のまだ冷たい風が吹く深夜の路上で、多喜さんがぽつりと言った「ごめん」という声だけが、忘れられない。

 当然それから先、俺はそれまで通りになんて多喜さんに接する事ができなくて自然と距離ができた。多喜さんとよそよそしくなった会社はひどく居心地が悪く、多喜さんに話しかけることができないのに、同じフロアにいるだけでその気配が気になって仕方がなかった。
 そんな時、新入社員として配属された辻を俺が指導することになり、多喜さんに向けていた気持ちを払拭するかのように俺は辻の面倒を見た。

 多喜さんとはあれ以来、距離ができてしまったままだ。

 1階のロビーに着いたエレベーターを降りてエントランスを抜ける。自動ドアから一歩外へ出ると強烈な熱気に襲われた。
「うわ、きついなあ」
 思わずそう漏らし、足早に地下鉄の入り口を目指す。
 雲があるにも関わらず、それを透過して肌に落ちる日差しが熱かった。
「タクシー使いますか?」
 辻が通りの先を指さすと、客待ちのタクシーが見えたが、俺は首を横に振った。
「これくらいの気温で何言ってるんだ。電車だ、電車。行くぞ」
 正直タクシーは魅力だが、甘えてもいられない。地下鉄の入り口だってそう遠くはない。
「でも、久野さんしんどそうですよ」
 隣を歩く辻がぼそりと言った。
 暑いのは苦手だし、フラフラする感じが皆無だといったら嘘になるけれど、外出のたびにタクシーを使っていたら総務に叱られる。
「大丈夫だよ」
 そう言って辻を見上げると、気遣わしげな視線とぶつかった。
「ありがとう、辻」
「いいえ」
 心配してもらえるのは素直にありがたかった。
 それでも心配そうな色をにじませる辻に笑いかけ、俺たちは今日の営業先へ向かった。

 3社回り終えたころにはすでに暗くなり始めていて、俺たちは帰宅ラッシュの始まった地下鉄の車両の中にいた。
 混み始めた車内で辻は他の乗客よりもあたま一つ飛び出している。端正な辻のルックスは白々しい地下鉄の蛍光灯の下でもよく目立った。辻を盗み見するように俺の隣の女性が時々ちらりと視線を送っていることに気づき、二人の間に挟まって俺が立っているのがなんだか申し訳ないような気分になった時。
 電車が急にブレーキをかけ、踏ん張ろうとしたけれど少しよろけた俺は、気づけば辻に抱かれるように支えられていた。
「あ、ごめん。悪い」
 反射的に誤って体勢を立て直そうとしたけれど、俺の背中には先ほどの女性がもたれるように体重をかけていてすぐに起き上がることができなかった。
「大丈夫です」
 頭の上でそう答える辻の首筋が目の前にあって、なんとなく気まずさを感じて目を逸らす。
 辻の高い体温をシャツ越しに感じ、どうしたらよいのかわからなくなり、俺はそのままじっとしていた。
 やがて俺の後ろの女性が体勢を直し、俺もそろそろと身を離す。
「ごめんな」
 もう一度謝ると、辻は目を伏せて「いいえ、気にしないでください」と囁くように答えた。

  
 辻の指導をしているからといって、自分の仕事がなくなるわけではない。
 定時を過ぎてから自分の仕事を片付けていれば、自然と帰宅時間は遅くなった。たしか辻も同じ路線に住んでいるはずだが、帰宅が一緒になることはなく、いつも先に帰る辻を見送ってそれからしばらく自分の仕事を片付けるのが日課になっていた。
「久野、キリが良いところで上がりなさい」
 そう声をかけられてハッと我に返る。夢中でパソコンに向かって資料を作っていると、気づけば21時を回っていた。我に返ってあたりを見回せばフロアに残っている人はまばらで、俺の課は多喜さんと俺の二人だけだった。
 多喜さんのデスクのノートパソコンは閉じられており、多喜さんも帰り支度を始めたところだった。
「あ、はい。もう少し」
 他の人が帰ったことにも気づかなかった。
 まさか多喜さんと二人になるなんて。以前ならこんな時、喜んで俺は多喜さんに甘えて、一緒に飲みに行こうと絶対に誘っていたけれど、さすがにそれももうできない。俺は鞄を持った多喜さんに「お疲れさまです」と笑いかけてまたパソコンに向かった。
 忘れていたのに、多喜さんがいると気づいたとたんに俺は全身で彼を意識する。
 振られているけれど、諦められたわけではない。
 俺は、いまでもまだ多喜さんが好きだ。
「……久野。もうすぐ終わりそうなら待ってるから、一緒に夕飯でもどうだ?」
 動き出そうとしない多喜さんの気配をいぶかしく感じたころ、多喜さんがそう話しかけてきた。
 え?
 俺は手を止めて多喜さんを見る。
「しばらく、一緒に飲んだり食事したりしてないだろう。行かないか?」
 多喜さんが優しい声でそう言った。
 それは、多喜さんの優しさで、へんに多喜さんを意識してしまった俺への気遣いなのだとすぐに解った。
 多喜さんの気持ちも、優しさも、嬉しい。
 とても嬉しい。
 でも。

 俺は、多喜さんと二人になって、どう接していいかわからない。

 今までみたいに、話なんて出来るんだろうか。

 戸惑いが顔に出たのか、多喜さんはゆっくりと俺のそばへ歩いてきた。
「久野さえ、よければ」
 けれどその瞬間、俺の脳裏にあの時の多喜さんの「ごめん」という声が響いた。
「……すみません、せっかくなんですけど、この資料今日中に作っちゃいたくて」
 俺は臆病だ。
 一瞬呼吸を止めた後で、そう言っていた。
 それから多喜さんを見上げて笑顔を作った。
「お疲れさまです。これ終わらせたら帰ります」
「……そうか。無理しないようにな」
 多喜さんはほんの数秒俺を見て、いつもの穏やかな微笑みを浮かべると一人、オフィスをを後にした。
 人が少なくなったフロアに扉の閉まる音が響く。
 俺はじっとパソコンの画面を見たまま、キーボードの上で手を握り締めていた。

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