文月 3

 それから小一時間ほどパソコンに向かっていたけれど、すっかり集中の糸は切れてしまい、22時になったのを合図に俺はパソコンを閉じてオフィスを後にした。
 夜のオフィス街は昼間よりも幾分涼しいとはいえ、それでも蒸し暑いことには変わりない。このどうしようもない暑さと湿気が俺から全てを奪っていくようで、自分が空腹なのかどうかすら、もうよくわからなくなっていた。
 最寄りの駅から地下鉄で一本。20分程度で自宅近くの駅へ到着する。
 深夜の車内は一杯飲んできた人達が多く、少し騒然としている。俺はドアの横に立ち、そのままドアに凭れてぼんやりしていた。
 もし、さっき多喜さんの誘いに乗っていたら、いまごろどうなっていたんだろう。多喜さんと前のように楽しく、何事もなかったように笑って酒でも飲んでいたのだろうか。それともお互いに気まずくて、言葉少なく向かい合っていたんだろうか。
 多喜さんには振られたけれど、だからって嫌いになれるはずもない。
 もう何年も、俺は多喜さんだけを見ていて、多喜さんに憧れていた。
 目を閉じれば、いつだって多喜さんの顔を脳裏に思い浮かべることができる。

 ………むなしいだけなのに。

 どうしようもなく思いものが胸の奥に溜まる。
 やがて電車は最寄り駅に到着し、俺は足を引きずるように駅のホームに降り立った。その時。
「久野さん?!」
 聞きなれた低い声が後ろから聞こえ、反射的に振り返るとそこには辻が立っていた。
「え、どうして……辻って、家、ここなのか?」
 思わずそう問うと、辻は小さくうなずいた。
「清水町です。久野さんは、富士見台でしたっけ」
 教えたことがあっただろうかと思いつつ頷く。一緒に改札に向かって歩きながら隣を見上げた。
「近くだったんだな。知らなかった。お前、早い時間に帰ったんじゃなかったっけ? 飲み会だったのか?」
 遊んできたにしては辻からはそんな雰囲気がしない。案の定辻は「いいえ」と答えた。
「英会話教室に通ってるんです。今はその帰りで」
「自己啓発か。がんばるなあ」
「久野さんだって、今帰りですか。遅くまで。……俺の面倒見てくれてるから、自分の仕事が追い付かないですよね」
 申し訳なさそうに辻が言う。
「いいんだって、新人の指導も仕事のうちなんだから」
 そういえば、俺が新人だったことも、多喜さんはやっぱり遅くまで仕事をしていた。なにかというと多喜さんが頭に浮かぶ。今日は特に。それを自覚して俺は知らず溜息をもらしていた。
「あ……。あの、久野さん。メシまだですよね? ―――もしよかったら、これから俺の家に来ませんか」
「え?」
「……実は、ナスが大量にあって、消費したいんです。今夜、茄子味噌炒めを作る予定なんですが。一緒に食べませんか」
 突然の誘いに、俺は言葉もなく辻を見上げていた。

「俺の料理、けっこう美味いですよ」

 その言葉を聞いたとたんに、自分がものすごく空腹なことに気づいた。
 清水町からなら、俺の家まで歩いても15分かそこらだ。甘えよう。
 そう決めて初めて訪れた辻の家は、豪邸だった。

「辻。なんだここ。おまえ、ぼっちゃんなのか」
 巨大な敷地は厚い生垣に守られ、広い庭には背の高い木々がたくさん植わっていた。広い日本家屋は古いけれど丁寧に手入れがされており、俺は門を潜った瞬間から圧倒されていた。
「ここはばあちゃんの家です。でも今は入院しているので、俺が一人で住んでいます」
 淡々と辻は答えて、ポケットから取り出した鍵で玄関の戸を開くと「どうぞ」と俺を中に入れてくれた。
 辻が手を伸ばして玄関の明かりを付けると、広い土間と磨き上げられたタタキ、そこから連なる飴色の廊下が見えた。
「広い……ここに、お前ひとりで? すごいな。掃除が大変そうだ」
 辻に続いて玄関を上がり、庭に面した広い和室に通された。
 庭に続くガラスの引き戸を開け放って網戸にすると、庭から涼しい風が吹き込んでくる。
「そうですね。土日はたいてい掃除と庭の手入れでつぶれます」
 辻が少し笑って答えた。
「すぐ用意しますから。くつろいでいて下さい」
 えんじ色のカバーがかけられた座布団を差し出して辻はそう言うと、そそくさとどこかへ消えていった。
 たたみの匂い。障子に張られた和紙。欄間には鳳凰が彫られている。
 和室は落ち着くなぁ……。
 初めて来た家にも関わらず、ここが辻の家だからという気安さと、誰もいない安心感で、俺はごろんとたたみの上にあおむけになっていた。目を閉じると庭を通る風が木の葉を揺らす音や、虫の声が聞こえる。
 暑い暑いと思っているけれど、夏至はとうに過ぎて、季節は次第に秋になろうとしているのだ。
 忙しい毎日の中で、そんなことすら気づかなかった。

 やがてTシャツとジーパンに着替えた辻が、ビールと枝豆と冷ややっこと茄子味噌炒めと糠漬けを持ってきた。
 向かい合ってビールで乾杯し、辻の手料理をつまむ。
 それは驚くほどやさしい味で、美味しくて、ついつい箸が伸びてしまう。そんな料理だった。

「気に入ってもらえたようでうれしいです」

 辻がにっこりと笑う。
 スーツじゃないせいか、声も表情もいつもと違うようだ。堅さというか緊張感を脱ぎ去った辻は、普段とはまるで別人のように感じられた。
「本当に美味しい」
「茄子がどんどん出来ちゃって。食べても食べても追いつかないんで助かりました」
「出来ちゃって?」
「あそこでつくってるんですよ」
 辻の視線の先を追うと、庭には家庭菜園らしきものがあるようだった。
「あとオクラとキュウリも豊作です」
「すごいな、おまえ」
「おすそ分けしますよ。もらってくれると助かります」
「………気持ちは嬉しいけど、俺はそれをちゃんと消費できる自信がないよ」
「やっぱり。久野さん、家でほとんど食べないでしょう。面倒がって」
「………」
 図星を指されて無言になる。辻のお手製だという糠漬けをポリポリやって返事を避けた。
「久野さん、本当に倒れますよ。よかったら、俺の家に食べに来てください。人が作った料理なら、少しは食べられるんじゃないですか」
 そんな風に誘ってくれる辻をちらりと見る。
 辻はひどく優しい目をして俺を見ていた。
「そんなに気を使わなくていいよ」
「ちがいますよ。一人じゃ野菜を消費しきれないから、一緒に消費してくれる人がいると、助かるんです」
 辻の低い声は、和室の空間に柔らかくなじんで、耳に心地よかった。
 心地よいのが、ここが広くて丁寧に手入れされている和室だからなのか、辻の料理が美味しいからなのか、それとも辻が作る雰囲気のためなのか、ビールで酔いが回り始めた俺の頭には判断できなかった。
 けれど、どこかふわふわした気分で、なんでも受け入れたくなってしまっていた俺は、気づけは「うん」と返事をして辻の誘いに了承していた。
 こうして、俺が辻の家で時々食事の世話になることが決まった。

葉月

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