葉月 3

 午前中に外回りを終えて帰ってきたところで、待ち構えていたように多喜さんから声をかけられた。
「久野、ちょっと」
 俺を手招きすると先に立ってフロアを歩いていく。
 俺は慌てて鞄を置くと多喜さんの後を追った。多喜さんが向かったのはフロアの片隅に設けられたミーティングスペースで、多喜さんが奥の椅子を引いて腰を下ろしたから俺はその向かいに座った。
「残業がすごく増えてるけど、大丈夫か?」
 優しい多喜さんの声に、俺は多喜さんの顔を正面から見た。
 それはとても久しぶりで、きっちりと整えられた髪や目じりに薄くついた優しげなしわは、俺が覚えていた通りだった。
「はい、大丈夫です。新規先を開拓したくて…」
 そう答えると、多喜さんが少し眉を寄せた。
「久野が頑張ってるのは分かってるよ。でも、そろそろ残業時間が増えすぎてまずい。このままじゃ人事から注意を受けそうだ」
「はい……」
 勤務時間はパソコンのログイン時間で管理されているからごまかしがきかない。俺はやってしまった、と多喜さんの前で小さくなった。
「目標までもう少しだよな。前みたいに相談に乗るぞ」
 多喜さんの声は、以前と変わらずに優しい。
 分かってる。多喜さん自身は変わらない。俺があんなとんでもない告白をしてしまったにもかかわらず、俺と変わらずに接してくれようとしている。
 どうしたらいいかわからず、動けなくなっているのはすべて俺自身の問題だ。
 きっと、ここで多喜さんに甘えたら、………そうしたら。

 思わず瞳を上げて多喜さんを見た。

 けれど、だめだった。
 俺の目の前で、穏やかな表情で座っている多喜さんを見たら。

 ………俺は、やっぱり、多喜さんに少なからず期待してしまう。
 優しくされたら、それでも好きだという気持ちがあふれてしまう。

 はっきりと、「ごめん」と言われているのに。

 公私混同してばかみたいだ。いい歳をして。

 いろんな考えが頭をよぎり、やはり俺は多喜さんに甘えることができなかった。

「……ありがとうございます。残業がこれ以上増えないように、気を付けます。……それと、目標はたぶん大丈夫です。なんとかなりそうなんで」
 半分は強がりだった。
 けれど言ってしまった手前、多喜さんに笑いかけて、俺は背筋を伸ばした。
「あの、もういいですか? 次のアポがあるんです」
「ああ、悪かったね。……俺に出来ることがあれば、なんでも言ってくれて構わないから」
 多喜さんにとって、今の俺はひどく扱いづらい部下なんだろう。
 そう気づいてしまって、胸が締め付けられる。椅子から立ち上がると多喜さんに会釈をして席に戻った。

 艶やかに輝く赤い色に思わず手を伸ばす。
 夏の太陽を受けて鮮やかに色づいたトマトは、手に触れるとしっかりとした堅さを感じた。
「いいですよ、それ、もいじゃって」
 辻と一緒に庭の畑を歩き、たわわに実ったトマトの前で思わず足を止めた俺に辻がそう声をかけてくれる。
 俺は力を込めてトマトをもいだ。
「農薬は使っていないので、そのまま食べられますよ」
 辻が笑顔で言う。
 もぎたてのトマトの表面をTシャツの裾で簡単に拭いて、思い切りそれにかじりついた。
 口の中に驚くほどの瑞々しいトマトの汁が広がり、強い味が広がった。青い香りが鼻の奥に広がる
 トマトって、こんな味だったんだ。
 そんなことも、ずっと忘れていた。
 俺は今まで、いったい何を食べていたんだろう。
 もぎたてのトマトは冷蔵庫から出したそれのように冷えていない。ごく自然な温度で、そしてしっかりとしたトマトの味がした。
 ビーチサンダルをつっかけ、真夏の太陽の下で緑の畝の間にたって、収穫したばかりの野菜をかじって。
 俺は、今、自分が生きているのだと。そんな当たり前のことに、改めて気づかされていた。

 8月も終盤にさしかかると、太陽が落ちた後の風は爽やかさを感じさせた。
 夜の空気はすっかり秋だ。
 その日の夕飯はズッキーニときのこのオリーブオイル炒めで、俺たちは腹いっぱい食べたあと、一緒に縁側に並んで座った。
「そういえば花火があるんです。裏の家のあおいちゃんにもらいました」
 思い出したように辻が言って、起ち上がった。
 裏のあおいちゃんは小学校2年生で、辻の家の庭に時々遊びに来る。辻になついていて、俺とも最近は挨拶をしてくれるようになった。
 辻が持ってきたのは昔懐かしい線香花火で、玉が大きくなって最後にぽとんと落ちるタイプのアレだった。
「懐かしいな。こんなの、まだ売ってるのか」
「風情があっていいですよね」
 仏間から持ってきたのか白いロウソクとマッチも手にしていた。
 一緒に庭に降り、間にロウソクを立てて火を付けた。一本ずつ持ち、小さな火花が散るのをそれぞれ眺める。ごく微量の夜風が庭を流れていく。
「……先週、係長に呼ばれていましたよね」
 ふいに辻がそういった。多喜さんが係長になった後に入ってきた辻は、多喜さんを係長と呼び、それ以前から多喜さんと仕事をしてきた旧来のメンバーは変わらず多喜さんと呼んでいた。
「……ああ」
「残業多かったの、言われたんですか」
 ぼそりと問う辻の声は会社にいるときのトーンで、俺は花火を摘まんだまま火花に視線を落としていた。
「よく見てるな、お前」
「たまたま見えたんですよ」
「新規の開拓をしたくて、準備に熱が入った。気づいたら残業がやばかったんだ」
 辻が気にしているのは、俺が必要以上に辻の面倒を見ているからではないかと思った。確かに他の部署の新人にくらべ、教育係が指導する時間は、俺と辻が圧倒的に長かった。お前のせいじゃないと伝えたかったけれど、辻が気にしていたのはそこではなかった。
「……久野さん、係長と何かあったんですか」
 息が止まるかと思った。
「………え?」
 かすれた声が漏れた。俺は目の前でしゃがみ込む辻を見る。
 暗闇の中で花火の僅かな灯りを受けながら、辻はまっすぐに俺を見ていた。
「奈良さんから聞きました。久野さんと係長って、去年まですごく仲が良かった、って」
 何も言葉を返せなかった。
 辻が知ってるわけない、気づくわけない。
 ………どうしてそう思っていたんだろう。
「久野さん」
 ばかみたいに辻の顔を眺めていたら、ふいに辻が花火を持たないほうの手で俺の手を掴んだ。そのまま軽く引き寄せられ、あ、と思った時には、俺のくちびるは辻のそれでふさがれていた。
 俺はまるで身動きもできずに、されるがままになっていた。
 片手を辻に掴まれ、片手にはいまだ火花を散らす花火を持ち、そして唇を覆うもう一つの体温を感じていた。

葉月の夜