長月の夜 1

 俺の視線を追って多喜さんが辻を見つけるのと、辻がこちらへ向かって歩き出したのはほぼ同時だった。スーツから普段着のTシャツとジーパンに着替えた辻は、駅の雑踏の中でとりわけ若々しく見えた。
 何も悪いことなんてしていないのに、気まずさを感じて俺の足はひとりでに止まり、俺の隣にいた多喜さんも足を止めていた。
「辻! 辻じゃないか。こんなところで……、ああ、辻もこのあたりだったか」
 何も知らない多喜さんは、嬉しそうにこちらに向かい歩いてくる辻に向かって片手を上げて声を掛けた。辻は多喜さんに会釈して、俺たちの前まで来ると足を止めた。
「遅くまで接待、お疲れ様です」
 会社で見るのと同じ、礼儀をわきまえた静かな口調と態度で辻はそう挨拶した。
「いやいや、なかなか楽しかったよ。なあ、久野」
 多喜さんに話を振られて、俺は狼狽した。辻の視線が俺をまっすぐに見下ろす。
「あ……、はい。先方も楽しんでいただけたようですしね」
「そうだな。ところで辻は、どうしたんだ? どこかに出かけるのか?」
 当然の疑問を口にした多喜さんに、辻は少しだけ首を横に振った。
「いいえ。―――ちょっとした買い物にでたついでの、散歩です」
 ちらりと俺を見てから、辻はそう答えた。
「駅の向こうへ行こうと思って。そうしたら、係長と久野さんが見えたので」
 何の不自然さもない回答をする辻に、俺はいよいよいたたまれなくなってくる。
 買い物と散歩なんて、嘘だ。
 こいつは買い物は帰宅途中で済ませるし、足りないものがあったとしても他のもので代用する。いったん家に帰ったあとは、出かけるなんてことをしない。
 明らかに、辻は俺を迎えに来ていた。
「そうか、もう遅いから散歩もほどほどにな。じゃあまた明日。おやすみ、辻」
 多喜さんはまるで疑わない口調でそう言うと、俺に向かって「じゃあ帰ろうか」と当たり前のように言って歩き出した。
「えっ……あ、はい」
 反射的にそう答えて多喜さんを追って数歩歩きかけ振り向くと、駅の反対側へとまっすぐに歩いていく辻の後姿が見えた。

 多喜さんと並んでロータリーを抜け、二つ目の信号まで一緒に歩く。
 偶然一緒になる帰り路は、この時間が嬉しくてたまらなかった。いつも胸が弾んでいた。なのに今の俺の頭の中は辻でいっぱいで、多喜さんとの会話も上の空だった。
 信号のところで多喜さんと別れたとたんに、俺は携帯を取り出して辻に電話をかけていた。
 呼び出し音4回で電話はつながり、低い辻の声がした。
「はい」
「あ、俺だけど……さっきは」
「すみませんでした。多喜さんと一緒だとは思わなくて」
 淡々という辻に、俺は路上でスマホを握ったまま立ち止まった。
「いや、それはいいんだけど………辻」
「はい?」
 どうしたらいいんだろう。
 何を言えばいいんだろう。
 頭の中をぐるぐるといろいろな考えが駆け巡り、消えた。
 呼びかけたのに無言になった俺に、しばらくしてから辻が言った。
「久野さん。俺も買い物終わったんで、もう帰ります。久野さんも気を付けて。じゃあ」
 辻の言葉を聞いて、俺は弾かれるようにこう言っていた。
「辻。今から俺の家、来いよ」

 俺は何度も何度も辻の家を訪れていて、今では週の半分くらいは泊るくらい居着いているのに、辻は俺の家へ来たことがなかった。歩いて15分かそこらの近い距離に住んでいるにもかかわらず、今まで俺は辻を自分の家へ誘ったことはなかったし、辻も俺の家へ来たいと言ったことがなかった。
 実際辻の家は豪邸だけれど、俺の家は新入社員の頃に借りた一人暮らし用の狭いワンルームアパートで、人を招くような家ではない。今までには多喜さんや学生時代の友人ですら、来たことはなかった。
 辻に電話を掛けた場所にそのまま立っていると、まもなく辻が駅のほうからやってきた。背が高いから遠目でも目立つ。辻は大きな歩幅で俺のそばまでやってきて、小さく会釈した。
「……お疲れさまです、久野さん」
 俺の前に立ち、そう言う辻は会社モードなのかプライベートモードなのか、いまいち分からなかった。けれど表情は薄く、俺と多喜さんが一緒に帰ってきたことを快くは思っていないのであろうことは感じられた、
「悪かったな、さっきは」
 何といったらいいか分からずそう告げると、辻は「いいえ」と首を横に振った。
「何も久野さんが謝ることなんて、ないです」
 辻を促して歩き出す。
 深夜の住宅街に二人分の足音が響いた。
「……お前、いつも家に帰った後、買い物なんて出ないのに、珍しいな」
 まさか「俺を迎えに来てくれてたんだろう」とも言えずにそう言うと、辻は言葉を濁した。
「……ええ、まあ。ちょっと外を歩きたいのもあったんで」
 辻も俺を迎えに来たとは言わず、あいまいに答えて隣を歩く。
「それより、珍しいですね。……行ってもいいんですか、久野さんの家」
 辻が少し調子を変えてそう話しかけてきたから、俺は斜め上の辻の顔を見上げた。
「何もないうえに狭いけどな。……せっかく、そこで会ったんだし。ビールくらい飲んでいけよ」
 辻と毎晩のように一緒に食事をするようになり、夜は一緒にいることが当たり前のようになっていた。
 ……俺の気持ちはまだ多喜さんにあるのに。
 ふいにまるで浮気をしているような気分になる。
 なんなんだろう、これは。
「嬉しいです。誘って貰えて」
 隣で辻が少し弾んだ声でそう言ったから、よけいに気まずさが増した。

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