exp 6

 先輩との通話を終了して、自分が今「彼氏持ち」ではなくなった、ということを考えたとたん、なんだかとってもスッキリした気分になった。
 寝不足で今日一日頭が重かったのが嘘みたいに晴れ晴れした気分だ。
 用の終わったスマホを机の上において、僕は思い切り背伸びをし、制服のネクタイを緩めて着替え始めようとした、その時。
 マンションの内廊下を歩く足音が耳に入った。
 りっちゃんだ!
 僕は着替えを中断して、制服のままで家を飛び出す。廊下に出ると、エレベーターのほうから歩いてくるりっちゃんと目があった。
「りっちゃん! おかえりなさい!」
 りっちゃんに走り寄る僕に、りっちゃんは微笑みかけて「ただいま、悠貴」といつもの落ち着いた声で言った。その声を聴くだけで、僕の心は幸せで軽くなる。
「りっちゃん」
 なんだかもうりっちゃんがいるのが嬉しくて、僕はりっちゃんにまとわりつきながら一緒にりっちゃんの家に入る。そんな僕をりっちゃんは「しかたないな」というような目で、優しく見下ろした。
 りっちゃんの部屋に入り、りっちゃんが着替えているのをいつものように壁に凭れて眺めていると、りっちゃんが僕に言った。
「悠貴も帰ってきたばかりか? まだ、制服のまま」
「あ、うん。着替えようとしたときにりっちゃんが帰ってきたのが聞こえたから」
 自分の着替えより、りっちゃんを迎えるほうが優先だから。
 そんな僕をりっちゃんは目尻を下げて見つめ、自分の着替えを終えると「おいで」と言ってくれた。
 それをずっと待っていた僕は、「待て」を解かれた犬みたいに一目散にりっちゃんに飛びついて、抱きつく。
「りっちゃん」
 ちょうど、僕の鼻先はりっちゃんの肩。
 りっちゃんの腕が慣れたように僕をそっと抱き、髪を撫でた。
「りっちゃん……」
 りっちゃんの肩に頬を押し付けると、りっちゃんの匂いがする。
 それを感じた瞬間、心の底から僕は安堵して、りっちゃんの匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
 ………あ、これだ。
 僕、これがないとダメなんだ。
 ……先輩、これじゃなかったから。
 くんくん、とりっちゃんの匂いをもっと嗅ぎたくて首筋に鼻を寄せると、りっちゃんが僕の頭の上で低く笑った、
「どうしたの、悠貴。今日は」
 問いかけながら、僕の髪を指で梳いてくれる。
 その感覚がとても気持ちよくて、僕は全身から力が抜けていきそうになり、りっちゃんにしがみついた。
「うん………あのね」
 言いたいことはたくさんあるんだけど、でも、一番言いたいことは。
「りっちゃん、大好きだよ……」
 りっちゃんに僕の思いのありったけを伝える。
 ああ、大好きなんて言葉じゃ全然足りないんだけどな。もっと最上級があればいいのに。
 半分座り込みそうになっている僕を抱え、りっちゃんはベッドに促した。二人で並んでベッドに座り、僕はなおもりっちゃんの匂いを嗅ぎたくてりっちゃんの首に顔を埋めようとすると、りっちゃんの手が伸びてきて、僕の頬に手のひらで触れた。
「悠貴、目が赤いよ……何かあったの?」
 りっちゃんの手が促すままに、僕は顔をりっちゃんの方にむけた。
 りっちゃんの匂いを嗅ぐのを中断されちゃったのは残念だけど、でも頬にりっちゃんの手が触れているのは、あったかくてとっても気持ちいい。
「昨日、あんまり寝てないから」
「眠れなかったの? 俺のところに来ればよかったのに。……何か、あった?」
 気遣わしげに問うりっちゃんに、僕は一つ頷いた。
「うん、実はね。僕、昨日は彼氏がいたんだ」
「………え?」
「僕、いろいろなことを知らないから、経験値を増やそうと思って」
「悠貴?」
「学校の先輩と付き合ってみたんだ」
 りっちゃんは今まで見たこともないくらい驚いた顔をして、僕の頬に手を当てたまま固まっていた。
 僕はその感覚が気持ちよくて、半分夢心地になりながら、昨日からのことをりっちゃんに話して聞かせた。

 僕の話が全て終わると、りっちゃんはおかしなものを食べたような顔をして、何度か言葉を飲み込み、それから「抱き寄せられた以外は、してないんだな?」と聞いてきた。
「うん。手をちょっと引っ張られただけ。あとはお弁当のおかずをもらっただけだよ」
「で……もう、別れたんだな?」
「りっちゃんが帰ってくるちょっと前にね」
「………そうか」
 りっちゃんはそういうと、深いため息をついて、何やらしばらく考え込んでいた。
「あのね、悠貴……」
 りっちゃんがそう言いかけたところで、ドアがトントン、とノックされ、おばさんの声がした。
「悠貴君、律、夕ご飯よ」
「はーい」
 りっちゃんちのご飯、今日はなんだろう。返事をしてウキウキしながら立ち上がろうとする僕の手を掴み、りっちゃんが強く引いた。
「あっ……」
 バランスを崩して倒れかけた僕を、まだベッドに座ったままだったりっちゃんが抱きとめ、そのまま強く抱きしめられた。
 背中に回ったりっちゃんの腕に、ぎゅっと力が入る。
 これまで何度もりっちゃんに抱きついたり、抱きしめられたりしてきたけど、それは今までにないくらい強い強い力で、僕はりっちゃんの胸に顔を埋めたまま、少し驚いていた。
 ……りっちゃん
 けれど、それはほんの10秒足らずで、りっちゃんはすぐに腕の力を緩め、僕の顔を覗き込んでいつものように優しく笑った。
「行こうか」

 りっちゃんの家の食卓は、いつものようにおばさんとりっちゃんと僕の三人。
 焼き魚と大根の煮物が食卓に並び、白いご飯とわかめの味噌汁が温かそうな湯気を上げていた。
 僕はりっちゃんの隣に座り、大根の煮物を少し摘まませてもらう。
 おばさんの作る大根の煮物は、それこそ自分の家の料理の味と同じくらい馴染んだ味で、それが口の中に広がると幸せで自然と顔がほころんだ。
「悠貴君がそうやって美味しそうに食べてくれるから、作り甲斐があるわ……」
 おばさんも本当にうれしそうに笑ってそう言ってくれて、隣のりっちゃんも笑みを浮かべて僕を見ていた。
 たっぷりと昆布から出汁を取っている煮物の香りを吸い込み、僕の頬はまたひとりでに緩んでしまった。

 それから自分の家に食事をしに帰り、お風呂と宿題と予習を済ませると、寝るのにはまだ早い時間だけれど僕はまたりっちゃんの家へ行き、窓をコンコンと叩いた。いつも通りすぐに窓が開いてりっちゃんが顔を出し、玄関を開けて僕を入れてくれた。
 りっちゃんももうお風呂上りで、僕たちは一緒にりっちゃんのベッドに入った。暖かい毛布の中でりっちゃんに抱き寄せられ、夕べほとんど寝ていない僕はすぐに睡魔に襲われた。
「……ん、りっちゃん……」
 りっちゃんが腕枕をしてくれる、そのぬくもりが嬉しくて、僕は半分眠りそうになりながらもりっちゃんにすり寄る。
「悠貴」
 頬に暖かいものが触れて、りっちゃんがキスをしてくれたのだと分かった。
「りっちゃん……僕、りっちゃんの匂い、大好き」
「……うん」
 耳元に囁くりっちゃんの、低くて柔らかな声。
「ずっと、りっちゃんの匂い、嗅いでたい」
「分かったよ……もう、寝ていいんだよ、悠貴」
 背中を撫でるりっちゃんの大きな手。
 全部が大好きで、安心できて、僕は僕の大好きなもので包まれている。
 幸せすぎて、身体が溶けそう。
 それに、眠くて……。でも、これだけは言わないと。
「……ねえ、僕、経験値、上がった、よ……」
「ん?」
「……だから、僕と、………………」
 言わないと。
 
 そこまで、思ったのに。
 瞼はとても重くて、僕は、どこまで伝えられたのか、………。
 
 幸せな匂いと体温に包まれて、僕は安心しきって、………

 
 
Fin