神無月 2

 辻と一緒に引き継ぎの挨拶で向かったのは、郊外にある顧客の本社だった。営業部の一部は都心に事務所を借りているが、本社は緑豊かな丘陵地帯にあってしかも駅からだいぶ離れている。バスの本数が多いとは言え、ここへ訪問するのはちょっとした小旅行だった。
 電車を乗り継いでのどかな駅で降り、駅前のバス停で時間を確認する。駅前には小さな商店街がありそれなりに買い物客がいたが、東京とくらべるととてものんびりした街並みが広がっていた。
「目的地はここからバスで10分くらいいった先。ヨヒガサカってバス停で降りると目の前が本社だから」
 そう説明すると、辻は少し首を傾げた。
「ヨヒガサカ? めずらしい地名ですね」
「だろ。俺もいつもどんな字書くのか気になってたんだけど……」
 なんて話しながらバスの路線図に目をやったが、それらしい名前が見当たらない。
「あれ? ないな……」
「10分くらい先っていったら………あ、もしかして久野さん。そのバス停の名前、ヨヒガサカじゃなくて、雪が坂なんじゃないですか?」
「え?」
 辻が路線図を指で示す。そこを見ると、たしかに見覚えのあるバス停の名前の先に「雪が坂」という名前が印字されていた。
「雪が坂? でも確かに、バスのアナウンスではヨヒガサカっていつも……」
「サカで終わるのはここだけだし、たぶん、本当は雪が坂なんですよ。あ、でもヨヒガサカって読むのかな」
 そんな話をしているうちにバスがやってきて、二人で乗り込む。バスの車内に流れる案内に耳を澄ましていたら、目的のバス停が近くなると「次は、雪が坂、雪が坂、お降りの方はブザーで……」とアナウンスが流れた。
「ゆきがさか……」
 思わず二人で目を合わせる。
 俺がずっとヨヒガサカだと思っていたバス停の名前は、きちんと聞けば雪が坂で、恥ずかしさに顔が熱くなるのが分かった。
「雪が坂でしたね」
 辻が長い腕を伸ばしてブザーを押す。バスを降りて、俺はまだ顔が赤いのを自覚しながら辻をちらりと見上げた。
「でも、ヨヒガサカって聞こえなかったか?」
「言われれば、そう聞こえる気もします。バスのアナウンスって、ちょっと音がこもっていたりしますしね」
「……なんか、めちゃくちゃ恥ずかしい……」
 自分の思い違いがきまり悪くて、「よし、行くぞ!」と空気を変えるように言い、先に立って本社の社屋へ向かって歩き出した。後ろから追って来る辻が、口元に微笑みを浮かべているのが目に見えるような気がした。

 年配の女性担当者はふくよかでのんきな顔をしているがかなりのやり手だ。彼女は新しい担当者として紹介された辻を見てひと目で気に入ったようで「これからもよろしくお願いしますね」と弾んだ声を出した。彼女のOKが取れれば大きな契約に結び付けることも難しくない。幸先の良い辻のスタートを感じ、俺は辻の隣で安堵していた。辻を教育した俺からしても、辻は落ち着き払った物腰と人好きのする空気を持った有望な営業マンだ。営業は顧客から気に入ってもらえなければ話にならない。その点辻はどこに行っても好感を持って迎え入れられることが多かった。
 30分ほど話をしてついでに新しい資料を渡して建物を出ると、辻が後ろを振り返った。
「……いいなあ、ここ」
 呟いて辻が足を止める。この会社全体のことを言っているのかと思ったが、辻の視線を追うと社屋の向こうに広がる山を見ていた。
「ここ、昔は遊園地があった場所なんだ」
「遊園地?」
「そう。郊外の山の中に遊園地作って、俺が小さい頃はそれなりに賑わってた。俺も何度か家族で来たことがある。でも日本の遊園地って、一か所に人が集中して、あとは赤字経営が多くなっただろ」
「……ああ。大型テーマパークにばかり人気が集まりましたよね」
「時代のせいもあるんだろうけどな。ここは15年くらい前に遊園地を廃業して、跡地の一部をあの会社が買い取ったんだよ。遊園地の時代に自然をそのまま残した状態の中に遊具を点在させるのをウリにしてたから見た目には巨大な自然公園みたいなんだ。とにかく土地が広いから、社宅とか研究棟とか保養施設なんかを作りたいらしいんだけど、地元住民の反発が強くて大規模な開発ができないらしい」
 前に聞いた話を伝えると、辻は小さくうなずいた。そして前庭から続く小道へと足を踏み入れる。
「せっかくだから、少し見ていきませんか」
 小道の先には緑が広がり、社屋の裏に広がる山へ続いていることが予想できた。
「いいけど、少しだけだぞ」
 乾いた空気は少しだけ土の匂いを運んできて、それは辻の家の庭を連想させた。 足取り軽く小道を進む辻の背中は、いつもよりも弾んでいるように見える。辻の後を追って煉瓦が敷かれた道を進み、奥のコーナーを曲がると右手に近代的な作りの社屋が、そして左手におそらく昔と変わらないのであろう雑木林が広がっていた。手前にはバラの植え込みがあり、淡い色の花弁がほころんでいる。
「いいなあ。ここ。落ち着く」
 社屋を囲むように作られた小道は中庭へ繋がっていた。今は人の姿がないが、昼休みにはここで昼食を取る人もきっといるのだろう。頭上からは10月のあたたかな日差しが差し込み、穏やかな風が吹いた。雑木林の木の葉が風に揺れ、サワサワと音を立てる。
 確かにだいぶ郊外だが、環境はとても良い。なんどもこの会社を訪問していたけれど、正門から受付を通り、案内された応接室へ入って仕事をして、そのまま同じ道を通って帰るだけしかしてこなかった。初日でいきなり会社の奥まで足を延ばしてしまう辻は、肝が据わっている。
 辻と並んで中庭に立ち、辻の視線を追った。黄色い花が咲く生垣の周りをトンボが飛んでいるのが見えた。トンボなんて、もうずっと見ていなかった気がする。
 ふと、辻が俺の隣で呟いた。
「……ヨヒガサカ」
「え」
「久野さんには、ヨヒガサカって聞こえたんですよね」
「……もう、恥ずかしいから。その話」
 顔がまた赤くなる。けれど辻はまっすぐに俺を見て、穏やかな顔をして口を開いた。
「同じものを聞いても、違う風に聞こえてるんですよね。だから、同じものを見ていても、違うように見えてるのかもしれない。この景色も」
「……」
「……俺は、久野さんにどう見えていて、どう聞こえているのか、知りたいです」
「……辻」
「きっと久野さんには、俺とは違う風に見えてるし、聞こえてる。それを知りたいです。久野さんの目と、耳と……何を感じているのかを、知りたい」
 よその会社の中庭で、辻はスーツを着てビジネスバッグを手にぶら下げ、髪をしっかりときれいにセットして、そして自分の家にいるときの解き放たれた顔をしていた。
「久野さんのフィルターを通して見えるものや感じるものを、全部知りたいです。そうしたら………」
 辻が手を伸ばして、俺の腕を掴んだ。
 そのまま軽く引き寄せられ、俺は抵抗するのも忘れて辻の胸元に引き寄せられる。
「あなたの心をつかむ方法が、はっきりわかるかもしれない」
 耳元に囁かれた声に、俺ははっとして顔を上げた。けれどその瞬間に、俺の腕を開放し、辻は来た道を戻り始めていた。
「次の会社、どこでしたっけ。また東京に戻るんですよね」
 まるで何事もなかったかのように歩く辻の背中を、俺は呼吸を止めて見つめていた。

霜月