霜月 2

 翌日の夕方、どこかの部署と内線電話で話していた多喜さんは電話を切った後で「久野、ちょっと」と俺に声をかけた。
「先月、A社に新しい商品の提案書類出しただろ。あのあと、すぐに契約取れてたよな」
「はい」
「その時の提案書類を使って、勉強会をして欲しいって営業2部から頼まれた。新人教育にも使いたいらしい」
「俺は構いませんけど……あの資料は、ほとんど辻が作ってます」
 答えながら辻を振り返ると、ちょうどこちらを見ていたらしい辻と目が合った。
「そうなのか。辻もちょっと、こっちに」
 多喜さんに呼ばれて辻が静かに席を立つ。並んで多喜さんのデスク前に立つ俺たちを、多喜さんが柔らかい視線で見上げた。
「あの資料、営業に行く前に俺も1部もらったんだけど、とても良く出来ていた。もちろん今まで積み重ねたものも大きかったと思うけど、資料が分かり易かったから契約に結び付いたというのもね、絶対あると思う。どうだろう、辻。2部の若手と新人対象なんだけど、勉強会をしてもらえないか」
 辻はきゅっと口もとを引き締め、迷うことなく多喜さんに頷いてみせた。
「はい」
「来週あたりでいいかな。業後がいいんだが、予定入ってない日を教えてくれ。辻は勉強会やるの初めてだから、久野、サポートしてやって」
「はい」
 辻が評価されている。それが嬉しくて俺の口許は自然とほころび、顔が緩んでしまう。そんな俺を見て多喜さんも嬉しそうに笑った。

 勉強会用に作り直した辻の資料は俺から見ても完璧で、何も言うところはなかった。火曜の夜に設定された勉強会では、参考になるからとなぜか他部署の若手や新人営業だけでなく、同じ部署の事務の女の子たちも数名出席するという盛況振りだった。まったく緊張している様子を感じさせない辻だったが、進行表を作って何度も見返していたのを知っている。去年違う商品を題材に俺も勉強会をしていたのでその時の資料を参考に渡し、いくつかアドバイスをした。それを元にしっかり準備しているようだし、何も心配ないだろう。
 時間になる前に一緒に会議室に行って準備をし、参加者が席を埋め始めた頃。出入り口のドアから事務の女の子が顔を覗かせて俺を見つけると「久野さん」と手招いた。
「なに?」
「お客さんから電話があって、今日納品予定の商品がまだ届かないって」
「え?」
「すぐに折り返し電話欲しいって言ってました。ちょっとご立腹な感じだったので……」
「すぐ行く」
 これから始まる辻の初めての勉強会が気になったが、それどころではない。俺はプロジェクターの前に立っている辻に目で合図を送り、足早にフロアに戻った。

 顧客に電話をしながらパソコンを叩いて状況を確認し、本来の納品日は明日で顧客の勘違いだったことが判明した。けれど急いでいる先方のために今日中になんとか納品できるよう、他部署に連絡をしているうちにすっかり時間が過ぎ、全てを片付けて会議室に戻ったときにはちょうど扉が開いて中から勉強会を終えた人たちが出てくるところだった。
「辻さんの話、すっごくわかりやすかった」
「参加してよかったね」
 事務の女の子たちがそんな言葉を交わしながらエレベーターの方へ歩いていくのを見送り会議室へ向かうと、ちょうど2部の同期が出てきたところで「久野」と呼びかけられた。
「あの新人、お前の下についてるんだって? すごい仕事できるんだってな」
「なんだ、来てたんだ」
 新人でも若手でもない彼が勉強会に出席していたことに驚くと、辻が作った資料を片手に軽く肩をすくめた。
「だってあいつ……辻くんだっけ。かなりできるヤツってけっこう有名。うちの課は今夜空いてる人は全員出席するように、って課長からお達しがあったくらい」
「ほんとに?」
 そこまで他所の部署で辻の名前が知れ渡り評価されているということに驚いた。
「営業部配属されてまだ半年だろ。他の同期に大きく差をつけてるよな。これからどんどん出世していきそう」
「がんばってるからな、あいつ」
 そこまで誉められている辻の初の勉強会の様子を見られなかったことが悔しい。
「なんか、久野見てるみたいだった」
「え?」
「久野も去年、同じような勉強会やったじゃん。あの時のお前見てるみたいだった。あいつ新人の域じゃねえな」
 なんだか不思議な感じがして同期の顔をじっと見ると、彼はぶんぶんと首を振ってネクタイを緩めた。
「違う部だからって油断してられねー。もしあいつがウチに異動してきたら、俺なんかすぐ抜かされそう」
「何言って……大げさ。確かに辻は頑張ってるけど」
「大げさじゃないって。でもあいつ育てたの久野だろ。お前もすげぇよな」
 感心したように俺を見て、それから彼は「まだやることが残ってた」と急いでエレベーターへ向かって行った。 
 俺が気づかないところで、辻がどんどん成長している。
 それが嬉しくもあり、寂しくもあり……そして後を追われているいることに僅かながら焦りを感じ会議室のドアを開ける。参加者はすべて退席した後で、辻がひとり一番奥の席に座り魂の抜けたような顔をしているのが目に入った。
「辻」
 名前を呼ぶと辻が顔を上げて俺を見る。
 やり切ったような、すべてを出し切ったような辻のその顔は、会社でも家でも見たことがない初めての表情だった。
「お疲れ様。勉強会、参加できなくてごめんな」
 そう言いながら辻の隣の椅子を引いて腰かけると、辻がハァ、と大きく息をついた。
「なんか、トラブルだったんですか?」
「ん? うん、ちょっと。でももう大丈夫。さっきそこで参加した人に会って話聞いたら、ベタ誉めしてたよ」
「……そうか。…………よかった」
 辻がようやくホッとしたように微笑みを見せ、身体から力を抜いた。
「緊張しました」
「うん」
「……久野さん。俺、まあまあ頑張りました」
 辻が少しだけ笑って、椅子を回し俺の方へ身体を向けた。
「うん、知ってる。お疲れ様、辻」
「……だから、ご褒美、ください」
 たくらむようなまるで遊んでいるような、不思議な光を宿す目で俺を見て、辻が少し顎を引いた。
「もちろん。今夜、飲みに行こうか。おごるよ」
「そうじゃなくて」
 辻が手を伸ばし、俺の手に触れた。
 辻のぬくもりに心臓が跳ねる。
 触れられるのは嫌じゃないけど、ここは会社だ。
「ちょっと、辻」
 言いかけた言葉は、辻の唇に吸い込まれた。
 大きな手が俺の後頭部を支えるように抑え、頭を動かすことができない。抵抗しようとした手は、あっという間に辻につかまれて強く抱き寄せられた。
「……っ、ンッ」
 くちびるを割って入ってくる肉厚の舌が俺の舌に絡んで強く吸い上げる。辻の舌が俺の口の中を辿るのに、俺は成すすべもなくされるがままになっていた。
 思いがけず強引な辻に完全に流されていて、もし今誰かが会議室のドアを開けて入ってきたら、と思うのに強く拒否できない。
 辻が強引に俺の口の中を舌で辿り、愛撫する。合わさるくちびるの隙間からかすかな声が漏れ、スーツに包まれた辻の身体をすぐそばに感じると体温が上がるのが分かった。俺の後頭部を抑える辻の手はいつしか優しく髪を撫で、キスが優しいものへと変化していく。いつの間にか流し込まれる辻の唾液と混じりあった自分の唾液が、飲み込み切れずに口の端からこぼれていた。
「……ん、………んぅ」
 いつしか辻が仕掛けてきたキスに身体から完全に力が抜けてしまったころ、ようやく辻は俺を開放した。
「………はぁ………辻、お前……」
 何か言ってやろうと思うのに、言葉が出てこない。仕方ないから睨んでやると、辻がいつもの顔で笑った。
「久野さん、すごく色っぽい」
 そして指を伸ばし、俺の口元を汚す唾液を拭うと、「よし」と言って立ち上がった。
「俺、仕事できるようになります」
 立ち上がった辻を見上げると、今までになく力強さを感じさせる視線が俺をまっすぐに射貫いた。
「係長より、もっと。あの人を超えます」
「………っ」
 言葉を失くし、ただじっと辻を見上げる。
 辻は苛立ちや嫉妬や、そういったネガティブな感情を全く感じさせない目で少しの間黙ったまま俺を見ていた。
「……だから、俺が成長するたびに、ご褒美下さい」
 そして、目尻を下げて微笑み、俺に手を差し伸べた。
「お願いします」
「……」
 何も言えず、黙って辻の手を取る。
 力強く俺を引っ張り上げて立たせると、素早く身を寄せ軽くキスをし、身を離した。
「帰りましょう、久野さん。今夜は鍋ですよ。マロニーちゃんを買ってあります」
 ここは会社なのに辻の顔と声は家にいるときのもので。俺は完全に翻弄されている自分を自覚しながら、辻の後について会議室を出た。

霜月の夜