大晦日 1

 辻からの連絡に返事をすることも出来ないままその日の夜は更け、俺は果てしない疲れとそして未だ味わったことの無いような深い虚無感に襲われていた。
 それは、辻を裏切ったからなのか、俺の腕の中で喘ぐ多喜さんが俺ではない人の名前を呼びながら涙を流した姿を何度も見たからなのか、どちらなのかはわからない。もしかしたら両方かもしれない。
 手に持っていたはずのスマホはいつの間にか床の上に落ちて、俺はコートを羽織ったまま壁にもたれて座り込んでいた。
 はっと我に返ったのは、静寂を打ち破る玄関のチャイムの高らかな音が耳に飛び込んできたからだった。床の上からドアを見上げ固まっていると、ややあっててドアが控えめにノックされた。
「久野さん、いますか? ……俺です。辻です」
 隣近所を慮ってか、控えめな声でドアの向こうからそう声をかける辻に、思わず立ち上がっていた。
 後から考えれば、灯りを付けてはいないから居留守を使うことも出来た。けれど俺は反射的にドアに手を伸ばしてレバーを押し下げ、扉を向こう側へと押し開いていた。
 外からは冷たい風が吹き込み、そしてドアの前にダウンコートを羽織った辻が驚いた顔で立っていた。
「久野さん……」
 驚きをそのまま声に乗せてそう呟いた後、強い力で腕を掴んで顔を覗き込んできた。
「久野さん、大丈夫ですか? 体調悪くて倒れてるんじゃないかって、俺……」
 返事をすることも出来ず、俺は黙りこんだまま辻の顔を見つめていた。
 アパートの廊下に取り付けられた灯りが映す辻の顔には高い鼻梁を映した深い影が落ち、俺はこの時初めて、こいつはなんてきれいな男なのだろうかと感じた。
「……なんで、スーツなんですか? コートも着たままで……もしかして今日も仕事に出ていたんですか?」
 辻がはっとしたように俺の身体を見下ろす。
「……そんなわけないだろ。違う、よ……」
 ようやく絞り出した声は自分でも驚くほど掠れていて口の中はカラカラに乾いていた。
「……久野さん。……昨日、帰らなかったんですか?」
 辻の視線が俺のシャツとネクタイに釘付けになっていた。
 頭のどこかで、なんて勘のいいヤツなのだろうかと考えていた。
 ……そんなの、ずっと前から解っていたけれど。
「……誰と、一緒にいたんですか」
 コートの上から俺の腕を掴んでいた辻の手から力が抜けた。
 黙って辻を見上げると、呆然としたような顔で辻は俺のネクタイの結び目あたりを凝視していた。
「……あの人、ですか」
 疑問形ではなく、確信を持った声で辻はそう呟いた。
 俺は「そうだ」とも「違う」とも言えず、辻を見ていた。
 辻の固まったように動かない表情は、冷たく凍える空気の中で彫像のように美しく映えていた。

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