アンバー 36

 深夜の大学で荷物を降ろし、再びトラックで都内へ戻る。
 荷台に乗っていた一年生を先に打ち上げ会場の前で下ろし、氷河と江沢はパーキングにトラックを止めた。会場へ向かいながら、次第に胸が高鳴る。それを見越したかのように、江沢が半歩前を歩きながら言った。
「桜木も打ち上げ呼んだからな。朝まで帰るなっていってあるから、まだ居るぞ」
 言われなくても分かっている、と氷河は唾を飲み込む。緊張で返事が出来なかった。
 ……何と言えばいいのだろう。
 どのタイミングで言えばいいのだろうか。
 いくら打ち上げで皆がべろんべろんになっているだろうとはいえ、そんな状態の中ではいえない。
 いや、逆に桜木がべろんべろんになっていたら、今日返事をするのは得策ではないかもしれない。酒に酔った桜木が記憶を無くしていたりしたら、もう一回同じ事を口にするようなそんな恥ずかしい真似は出来ない。 
 そうだ、何も今日返事をしなくてもいいのだ。
 打ち上げが終わって、明日倉庫を片付けて、明後日反省会をして、それからの方がいい。
 都合のいい方へ考えると、少し気持ちが楽になった。
 さぁ、飲むぞ~
 いくらか足取りも軽くなったところで、江沢が突然立ち止まる。
「コンビニで煙草買ってから行くから、越智、先に行ってて」
「あ、うん」
 そこで江沢と別れ、氷河は一人で打ち上げ会場へ向かった。
 場所は一年の時から何度も使っているので良く分かる。深夜だというのに人並みに溢れた街を通り抜け、見慣れたビルの前に立った。居酒屋は二階のため、エレベーターを使わず外の階段から上がる。この場所で打ち上げをするときにはいつもそうしていた。
 階段を上り、二階のロビーに出るドアを開けかけた時、踊り場の暗がりに誰かが立っている姿が目の端に映った。v  何も考えず、その影を追う。
 踊り場ごとに設置されたトイレの角に、忘れもしないヒカリのストーカーが隠れるようにたっていた。
 氷河は一瞬思考が止まり、彼の顔をじっと見つめた。向こうも氷河を瞬きもせずに見つめている。凍りついた空間を破ったのは彼だった。ゆっくりと氷河に向かって歩いてくる。
 いや、階段を降りようとしているのかもしれなかったが、彼の眼は氷河の顔の上に固定されたまま離れなかった。
 ……ストーカー……ストーカーだ……
 捕まえないとっ!
 何かに命令されたかのように、氷河は夢中で飛びかかった。何も考えられなかった。地面を蹴ったのと、彼の手に光るものがある事に気づいたのはほぼ同時だった。
 ……あれは……刃物……!
 目にしたものが視神経を伝わり脳へ伝達する。脳が状況を理解する前に、氷河は彼を押し倒したていた。
「うぁぁぁぁあああああーーーーーー!!!!」
 ストーカーは大きく口を開き、雄たけびをあげた。
 目の前の赤い穴からその声が出ているとは理解できないくらい、獣じみた声が階段に反響した。氷河は彼の両肩を抑えたまま、その空洞のような眼を見つめてた。いや、見詰め合っていた。
 乾き、血走った、やたらに黒目の小さな眼だった。
 呆然としたまま雄たけびを聞き、おもちゃのような眼を見詰めていた。
 ふと、腹に衝撃を感じ、ゆっくりとそこを見た。
 彼の両手が木で出来た取っ手を掴み、取っ手の先は氷河の中に埋まっていた。 
 みるみるうちに彼の手が真っ赤に染まり、液体がぽたぽたと上から下へ、滴り落ちる。
 じんじんと、そこに全ての血管が集まったかのように熱く、痺れを感じた。
 押さえ込んまれていた彼が氷河を押しのけ、ゆらりと立ち上がる。
 床に蹲った氷河の腹部からは暖かい血がどくどくと溢れていた。そこを両手で抑え、彼を見上げる。
 いつのまにか抜いたのか、やたらに長く尖った……そして真紅に染まったものを片手に持っていた。
「氷河さんっ!!」
 無音だった世界に叫び声が響き渡った。氷河が声のほうを振り向くと桜木が二階のドアを開け、呆然とこちらを見ていた。
 カンカンカン、と乾いた音がして、刃物を持った彼が階段を駆け下りたのが分かった。桜木は彼を追おうとしたが、すぐに氷河の傍に駆け寄り、崩れた体を抱き起こした。
「氷河さんっ、氷河さん、しっかりして下さいっ!!」
 氷河は桜木に抱かれながら、なぜかGパン刑事の最後のシーンを思い出していた。そんな自分にふとおかしくなる。
 俺……死ぬのかな……
 そんな考えが自然に浮かぶくらい、両手を濡らす液体は止まらなかった。
「早くっ、早く誰かっ! 救急車をー!!」
 桜木が真っ青な顔をして怒鳴っていた。
「……さくら…ぎ」
 自分の体を抱きしめる桜木を見上げ、その名を呼ぶと、桜木がダークブラウンの潤んだ瞳を氷河に向けた。
 あぁ……俺の好きな瞳だ……
 氷河は小さく息をついた。
 世界が限りなく透明に感じた。
 最後に、桜木が目の前にいる……そういうのもいいかもな……  照明……江沢の劇団での照明…残念だったな……これからだったのに……でも、公演が終わった後で良かった……皆に迷惑をかけないですんだ……
 不思議なほど穏やかにそう思った。
「氷河さん、大丈夫ですから、絶対に……!」
 桜木の震える声がした。
 氷河は桜木を見上げて、言葉を継いだ。
「最後……だから……言うけど…さ……、お、れ…桜木が、好きだ…った、よ……」
 目の前で次第にかすんでいく桜木を見つめ、微笑んだ。 
 頭の後ろから意識を引っ張られるように次第に気が遠くなっていく。
「氷河さん、氷河さんっ!!」
 桜木の悲鳴が次第に小さくなっていく。
 氷河は、暗闇に誘われるように眼を閉じた。

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